芸術性実現を理由として「暗示」的な構成になっているわけですが、暗示的な構成をもつ、もうひとつの大義名分として映画が「米国批判」な内容であるという事実があります。まあ、大して目くじら立てるほどのもんじゃないんですが(何しろアメリカは...続きを読む, 黙示はギリシャ語で「覆いを取り去る」「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味していて、紀元前3世紀頃から紀元後数世紀のいわゆる後期ユダヤ教の内外で起こった文学運動を「黙示文学」といいます。一番有名なのは、新約聖書にある「ヨハネの黙示録」なのですが、旧約聖書の「ダニエル書」も黙示文学として分類されています。 さて、その暗号ですが、どういう暗号かというと、ジェシー・ウェストンの「儀式からロマンスへ」とフレイザーの「金枝篇」という中世伝説(アーサー王などの物語)の2冊の本を読んでいなければならないという性質のもので、この2冊は教養のある西欧人なら普通はたしなんでいるものなのだそうです。その2冊がキーだというのを示すように映画の中でカーツの机の上にこの2冊が置いてあり、意味ありげに一瞬アップになるらしい。ですので日本人にはこの時点で地獄の黙示録を深い意味で理解する基礎知識が欠けているのです。 そんでも、伝統的なレビューの方法よりかは遥かにましだと言う気はしております。, なんか、一人、ネット社会の奥でぼつりぼつりカーツ大佐みたいなことを口走っておりますが、ここらで、いつもどおりの映画の見方を『地獄の黙示録』という私が一番好きなはずの映画に適用してみませう。, 映画と言うのはこういう風に画面が流れるように決められたメディアです。 そしてウィラードはカーツ大佐を殺した後、カーツの意を叶えるため、密林の中の城をナパームで徹底的に爆破し焼き尽くしたのだ・・・。 フランシス・フォード・コッポラ監督によるベトナム戦争を描いた映画『地獄の黙示録』。前半の残虐的な戦争シーンと打って変わって後半は、王国の物語になっていきます。前半と後半のテイストの違いをここでは分析して見たいと思います。 それとは別のシーンなのでしょうか。 映画の観客として彼をみた場合、みる者を楽しませてくれる心憎い脇キャラであって、「平和が一番」とかそういう観点から憎むべき相手にはどうしても見えないのですね。, ウィラードたちが誰と戦っているのかが画面から見えてこないことと同様に、キルゴアが悪人なのかどうなのかという判断さえ画面からは見えてきません。 です。 としているが、このシーンで原住民が武器を捨てるシーンは実に見難い、分かりにくい。私には武器を捨てることが平和を意味するなどとはとても思えず、新たな支配者となったウィラードへの服従を示したのだと受け取った。あの状態で武器を地面に置くことが平和のメタファーだというのは飛躍し過ぎた、余計な深読みであり邪推だ。, ●ドアーズの歌の歌詞、カーツの走り書き、自分の息子たちに伝えてほしかったこと、そこから筋をつなげていけば、ラストの宮殿爆破はカーツが作った狂気の王国をすべて消滅させてくれというカーツの願いを叶えたものだという結論にたどり着く。ドアーズの歌もそこにつながる内容だ。それが自然な物語りの流れであり、登場人物と台詞から繋がる意志の表れだ。そう解釈するのが極めて自然だ。 物語の目的をまず決定し、それを追及するのが主人公であり、それを阻害する要因を設定することで物語のうねりを作り出します。, 物語の目的を追求するのが主人公なのですから、主人公の基本立ち位置は目的の所在の方向を向ける位置、画面の向かって右側となります。  (何か他の映画の1シーンと勘違いして、とんちんかんなことを言っているかも?) exterminate Them ALL」というカーツの言葉がある限り、最後の爆破シーンは物語の流れの中でこのセリフと繋がる。最後の爆破シーンをカットするのならば「Drop the Bomb. ・石岡瑛子さんが亡くなったこともあるのかもしれないが、最近になって石岡瑛子さんが手掛けた地獄の黙示録のポスターや画像があれこれ紹介されている。資料的な意味も考えて、この日記に転載させていただく。(2012/August), LACROIXさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. アメリカ映画が、映画であったのは、この映画までだったのではないか?そんな風に思う。 正真正銘の映画、これぞ映画、映画足りえる映画・・・・・そういう映画である。 心してみなければならない、背筋を伸ばし、真剣に対峙して見なければいけない、そういう映画でもある。 「特別完全版」とありますが、なんか、カットされているシーンがあるような気がするのです。 暗殺に向かうウィラードの視線は基本的に<−とネガティブ方向。, それに対し、カーツは−> <−の構図で向き合っているかというと、実は同じく<−であり、単に背中から不意打ちしたと解釈することも出来るだろうが、実は二人は対立関係にあるのではないと解釈も成り立つはずである。, 冒頭の鏡を割るシーンで、物語の目的を失った主人公が、ここでやっと本来の目的を見据えることの出来るポジションに返り咲いたとでもいわんばかりのカット繋ぎ。, つまり、自己否定の過程を終えて、自己再発見に至ったと解釈できるシーンですが、 かなり、後日になってしまうかもしれませんが、それを確認してからあらためてご挨拶申し上げる所存です。, ありがとうございます。 映画『地獄の黙示録 ファイナル・カット』が2月28日に公開される。巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督による映画史に名を刻む戦争映画の金字塔が、再編集とデジタル修復を施されて新たな姿で蘇った。さまざまな伝説を持つ『地獄の黙示録』の魅力に改めて迫る。(編集部・大内啓輔), 1979年に公開された『地獄の黙示録』(日本では1980年に公開)は、コッポラが『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART II』の成功で手にした私財を投じるなど、映画作家としての人生をかけた渾身の一作として知られる。カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルムドールに輝き、アカデミー賞では撮影賞と音響賞を受賞。今なお戦争映画の傑作として威光を放っている。, 新たに公開されるファイナル・カット版は、コッポラが過去バージョンの問題点を分析した新たなバージョンとなる。これはオリジナル劇場公開版より30分ほど長く、未公開シーンも加えた『地獄の黙示録・特別完全版』よりも20分短い182分に再編集されたもの。映像には撮影時のオリジナル・ネガフィルムが初めて使用され、音声に劇場公開版のプリントマスターが用いられている。IMAX仕様でデジタル修復され、コッポラ自身も最も満足できるバージョンと語っている。, 『地獄の黙示録』の舞台は1960年代末、ベトナム戦争後期。戦場に戻ってきたアメリカ陸軍のウィラード大尉は、軍上層部から特殊任務──カンボジア奥地のジャングルで、軍規を無視して自らの王国を築いているという元エリート軍人のカーツ大佐を暗殺せよ──を命じられる。ウィラードは4人の部下と哨戒艇でヌン川を上り、狂気に満ちたベトナム戦争の渦中を目の当たりにする。, カーツの王国に近づくにつれて、自らも精神のバランスに変調をきたしていくウィラード。部下を次々と失いながらもカーツの王国に辿り着いた彼は、アメリカ人の報道カメラマンと出会い、カーツの真の姿を聞かされる。戸惑いを隠せないなか、ついに王国の神と対面を果たす……。, 全編にわたってベトナム戦争における暴力や狂気が皮肉をこめて描かれ、戦争に加担したアメリカ合衆国が批判されている。サーフィンをするために敵部隊を村ごと焼き払うサーフィン狂の中佐をはじめ、兵士たちの慰問のために用意された、ジャングルに突如出現するプレイメイトのけばけばしいステージ、ドラッグに溺れて正気を失いつつある河川哨戒艇の乗組員、そして指揮官不在で戦い続ける最前線の兵士など、もはや喜劇ともいえるような狂気の光景が眼前で繰り広げられる。, 当時から泥沼化していたことが明らかだったベトナム戦争だが、映画としては、朝鮮戦争における移動野戦病院の医師たちを主人公としたロバート・アルトマン監督による『M★A★S★H マッシュ』や、第2次世界大戦を舞台に戦争の狂気を描くマイク・ニコルズ監督の『キャッチ22』のように、別の戦争に仮託したかたちで描かれるしかなかった。, その意味で『地獄の黙示録』は『帰郷』『ディア・ハンター』と並んで、80年代に入って続々と作られることになる、ベトナム戦争映画の先駆的な作品となった。まさにコッポラ自身が語るように「観客にベトナム戦争の恐怖、狂気、感覚、道徳的ディレンマなどの認識を与え得るような映画体験を創造すること」(劇場公開版のパンフレットより)に成功したのだといえる。, そして、キャストにも豪華な面々が揃っている。ウォルター・E・カーツ大佐をマーロン・ブランド、ビル・キルゴア中佐をロバート・デュヴァル、ベンジャミン・L・ウィラード大尉をマーティン・シーン、タイロン・“クリーン”・ミラーをローレンス・フィッシュバーン、ルーカス大佐をハリソン・フォード、そして報道カメラマンをデニス・ホッパーが演じている。, 撮影は1976年3月20日に始まり、120日間で1,200万ドル(現在で約13.2億円、1ドル110円計算)の予算で終わる予定だった。しかし、結果として540日の撮影日数を要し、最終的な費用は3,100万ドル(約34.1億円、1ドル110円計算)にもふくらんだ。撮影後もコッポラたちは150万メートルのフィルム素材と格闘し、編集には2年半もの月日を必要とした。, そんな『地獄の黙示録』は、作品そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に撮影をめぐる逸話が伝説となっていることで有名だ。当時、コッポラの妻であるエレノア・コッポラが撮影に同行(幼かったソフィア・コッポラたちも)。その混迷をきわめた撮影の記録は手記としてまとめられて出版された。さらに、エレノアが撮った映像や音源に関係者たちのインタビューを盛り込んだドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』ものちに公開されている。, 撮影はフィリピンで行われ、ベトナムの難民を含む数千万人にものぼるエキストラや国際色に富んだキャストたちが集められた。1969年のベトナムの状況を忠実に再現すべく、ベトナムの村落やアメリカ軍の駐屯所、アンコールワットのような寺院などのセットが続々と作られることに。そんななか撮影開始から2か月が経過した1976年5月、6日間にわたって猛威をふるった大型台風に襲われてセットの数々が破壊されてしまう。川が氾濫し、結果、撮影は2か月も中断することになった。, コッポラを悩ませたのは、自然災害だけではない。マーロン・ブランドが撮影時にキャラクターのイメージとは大きく異なる100キロオーバーの体重になっており、セリフも覚えようとしない。あげくは撮影前から手付けに大金を受け取っておきながら撮影をキャンセルしようとするなど、コッポラの精神を疲弊させる。また、デニス・ホッパーも薬物依存症がひどく、原作を読んでおらず、コッポラと口論することも。問題児ばかりの撮影に、コッポラは心労で倒れてしまった。, また、アメリカ国務省の協力を得られなかった一方で、フェルディナンド・マルコス大統領は撮影隊を援助し、火器銃砲などを提供した。が、当時フィリピン国内はゲリラとの戦闘で混乱しており、撮影に必要なヘリコプターが南ミンダナオでの戦闘のために動員されてしまうという事態も。撮影では、朝にアメリカのマークを塗り、夜にはフィリピン空軍のしるしに塗り直すなどの苦労もあったという。, ほかにもウィラード大尉役に決まっていたハーヴェイ・カルテルが早々に降りてしまうなど、滑り出しからトラブル続きだった。ちなみにコッポラ自身もカメオ出演しており、その姿を劇中で見せている。ベトナム戦争を報道するテレビ局のディレクターとして「カメラを見るな!」と兵士に声を荒げているのが彼である。ベトナム戦争ではテレビ中継が大きな役割を果たしたことが、この演出からもうかがい知れる。, 映画のタイトルにもある「黙示録」Apocalypseとは、黙示文学とも呼ばれるが、紀元前2世紀ごろから紀元350年にかけてユダヤ教徒やキリスト教徒の間で書かれた宗教文書のうち、神の秘められた意志が啓示されたと称する書物のこと。一般的には「ヨハネの黙示録」のことを指すが、その意味でも『地獄の黙示録』はタイトルから暗示的であり、「現代の黙示録」として神話的な物語ともなっている。多様な解釈を可能にするのは、当然のことといえる。, 原案はジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」であり、コッポラは小説の素材やキャラクターを自由なかたちで利用している。映画のカーツ大佐にあたる主人公はアフリカ奥地で象牙採集に従事する商社マンで、未開の地で原始的なエネルギーに圧倒されて、ゆくゆくは人間性を失いかける。帰国する途中で、映画にも登場する有名なセリフを口にする。ちなみに、この小説を映画化しようとした人物に『市民ケーン』を撮ったオーソン・ウェルズがいるほか、ブラッド・ピットが出演した『アド・アストラ』のベースにもなっている。, ほかにも『地獄の黙示録』には、T・S・エリオット「うつろな人間たち」「荒地」、J・L・ウェストン「祭祀からロマンスへ」、J・G・フレイザー「金枝篇」などの文学作品が重要なソースとして用いられており、劇中にもさまざまなかたちで登場している。こうした物語と絡めて解釈に挑むのも一興かもしれない。, さらにはドアーズの楽曲や「朝のナパーム弾の臭いは格別だ」というキルゴア中佐による名セリフ、キルゴア中佐率いる空挺ヘリ部隊がリヒャルト・ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をかけながらベトナムの村落を攻撃していく描写など、脳裏に焼き付いて離れない数々のシーンがある『地獄の黙示録』。その魅力を今回の貴重な機会に、大きなスクリーンで存分に味わってみたいものだ。, 参考文献 新しく生まれ変わったはずなのに、その新しい自己には、それに見合う新しい目的が見出せない。, ベトナム戦争以降のアメリカの実情と言うのは、そのようなものであったのではないでしょうか?, 60年代以降、世の中何か生み出したんですか?結局拝金主義だけでしょう? 特に敵地でサーフィンをしようとするキルゴア中佐の描写はあまりにも過激すぎて、驚いてしまいまう描写です。, ウィーラード大尉はカーツ大佐を殺すという極秘ミッションを受け、カーツ大佐を探し川を上ります。 結局この爆破映像は使用した。この作品をオリジナルの70mmフィルムで最初に公開したときは、メインタイトルもエンドタイトルも付けていなかった。だから観客はフィルムの終わりが物語の終わりなのだと受け取った。(爆破映像は付いていない)だが35mmフィルムでの公開時にはタイトルを入れなくてはならない。そこで爆破の映像をタイトルバックに使った。たぶん、それが結果的に誤解を招いた。一般公開でこの爆破映像を使用したことが、2つの結末説を想起される証拠になってしまった。 exterminate Them ALL」が叶えられずカーツが作った狂気はこの世に残ったままになってしまうのだ。 世の中には、『地獄の黙示録』以外にも分かりにくい映画があります。 『 ブレードランナー 』は今になってみるとそんなに難しい映画でもないような気がしますが、それでも分かりにくさゆえ公開時には、ラストを差し替えられることになりました。 本能で獣のように戦う彼らこそが、本物だと気がついたのです。, そのカーツ大佐の話を聞いて、ウィーラード大尉も流され始めていました。 ははー。4つのストーリーのうちの1つに登場する飛行機恐怖症の人ですね。, 「バーコード 名前」に関するQ&A: ステッカーをペタペタ貼ってるスーツケースってどう思いますか?, 地獄の黙示録っていったい何が言いたいんでしょうか?何回も見てますが、何を伝えようとしてるのかいまいち解りません。, 何が言いたいのかわからないのはそもそもあの映画が正に「黙示録」だから。黙示とは黙して示す、つまり、「暗示」しているわけですね。あの映画は全て暗号で組み立てられていると言っても過言ではない。その暗号構造が極めて「芸術的」であると言えるでしょう。 ©Copyright2020 MOVIE TREASURE BOX.All Rights Reserved. ブログを報告する. 「地獄の黙示録 特別完全版」(HERALD)のビデオをレンタルしてきました。「特別完全版」とありますが、なんか、カットされているシーンがあるような気がするのです。おぼろげな記憶なのですが、二十数年前、日本公開され始めた当 じゃあそれ以前に何かあったんでしょうか?無知と因習に対するノスタルジーだけじゃないんですか?, と言う具合に、『地獄の黙示録』を語ってみると、実は「よく分からなかった」と言う感想が一番正しいのではなかろうか、という気がしてきます。 そりゃ、こういう狂った軍人、狂った軍隊がラスボスであると認識するなら、当然そういう脚本にすべきなんでしょうが、『地獄の黙示録』ってそういう映画じゃないでしょ? で、そんな「地獄の黙示録」は 結局のところ何が面白いのか? 又中世伝説にのっとれば、病める王は殺され、その暗殺者が新たな王となる。つまり、ウィラードが新たな王です。原住民はその図式に従い、カーツを殺したウィラードを王とあがめたが、ウィラードは最初の指令として武器を捨てる事を部下に示し、それに従い、みな武器を捨てる。つまり、救済され、ベトナム戦争を辞めようというメッセージです。 たしかに、頼りがいのある上司であることは否定できない事実でしょう。 平和時の常識VS戦場の現実 だったり、  軍隊機構の非人間性VS生身の人間だったりします。, 敵のほとんど見えない『地獄の黙示録』では、ウィラードたちは何かと戦っていたのかと画面の方向をチェックしつつ考えるのですが、, 解放戦線の拠点の村を強襲するために出撃するヘリ部隊。 ろくでもない側面を持っているというのは、まあ誰でも分かるとは思いますが、唾棄すべき人間なのかというと、結局よく分からないです。というか、分からなくさせるべく、画面がつながれていっているわけです。, みる者の判断を停止させる、分け分からなくさせることに心血注いでいるのが、このヘリの強襲シーンでありまして、 映画の前半で、サーフィンを敢行しようとしながら、ナパームで派手に爆撃して、指揮官がナパームの匂いについてどう、こう、というシーンはビデオに入っていますけど、カーツの村かどうかは私はわからないのです。 もしも教えていただけると幸いです。, ありがとうございます。 何と何の争いを描いているのかと言えば、 こういうのを戦争映画というのか?誰と戦っているのかよくわからないのに戦争していると言えるのだろうか?と言うことですが、, 実はこの、誰と戦っているのか分からないという構図は戦争映画の傑作としては王道路線だったりします。 アメリカ軍から危険人物とになされていたカーツ大佐。, これはカーツ大佐自身がベトナム戦争を通して感じた結果だったのです。 上下2巻の構成で、合計202分。画面の上下に黒帯が入らずに4:3の従来テレビ画面にピッタリ入っているようになっていて、日本語字幕が入ったものです。 よくよく思い返してみますと、ベトナム戦争に於いてアメリカ軍が戦っていたベトナム解放軍の姿が、この映画にはあまり出てこないのですね。出てくるとすればロバートデュバルのヘリコプター部隊の強襲シーンくらいでしょうか。 文明に生きていた兵士達が、ジャングルの奥にどんどん入っていくことで次第に獣のようになっていく様子を描いていたのです。, 映画『羅生門』あらすじと解説 3人の証言と真実は?『羅生門』の伝えたかったことは?, 映画『愛と青春の旅立ち』あらすじと解説 恋と友情の青春映画に描かれた父と息子の物語, アニメ『ドラゴンボール』第6話「真夜中の訪問者たち」ドラゴンボールを追って集まる人たち, 映画『ロードキラー』あらすじとネタバレ 悪ふざけはほどほどに! 犯人の男はどうなった?. そして、いつ、主人公が向きを変えたかとか、主人公と同じ方向を向いているのは誰と何なのかとか、主人公と逆を向いているのは誰と何なのかに着目していけば、その映画を理解できる、というのがこの電波ブログの趣旨であります。, あまりにも単純な法則で成り立っているのがこのブログの規則なのですが、その規則を元に私がかたっている内容は、少なくとも私から見た場合極めて妥当なものに思えるのですね。, 画面にはあらかじめ進行方向があり、その向こうに物語の目的があると設定されている。映画とはそういうもんですし、これはアメリカ流の脚本作法の「まず物語の目的を設定する」というものに対応しております。 ・いつ、誰が、何のためにカットしたか? Copyright © 2000-2020 CINEMATODAY, Inc. All rights reserved. 私の記憶の中にある生首シーンと同じ映像なのかどうか、確認してみたいです。なんだか気になってきました。, この場をお借りして、皆様に、いったん御礼を申し上げます。 | これは、ウィラードには、カーツに会いに行くという目的はありますけれども、なぜ会いに行かないといけないのか会ってどうするのかという目的は、実のところよく分からないのですね。 映画『地獄の黙示録 ファイナルカット』imax版は2020年2月28日から全国ロードショー フランシス・フォード・コッポラの名作映画『地獄の黙示録』。 そのストーリーの難解さとリアリズム溢れる映像美によって、多くの方々を魅了し考察を生んでいる作品である本作。 exterminate Them ALL」という言葉もカットする必要があるだろう。, ●監督が言っているから正しい、監督がそう言っているのだからそれに非を唱えるのはおかしいとは思わない。監督であろうが誰であろうが、状況によって後付けでなんとでも語ることはできる。自分に都合よく物事を説明するというのは人間が最もよくやることだ。ラストの爆破シーン削除に関するコッポラの説明は、後付けの言い訳、ウソだろうと思えるのだ。, ☆通常版DVDに特典映像として収録された爆破シーンでコッポラが語る削除の理由 (79年の35ミリ拡大公開版), ●カーツ大佐の「Drop the Bomb. 尚、戦争スペクタクル的なものは初期の段階であっさりできあがっているが、その「深い映画」を完成させるのにコッポラは5年間も深い葛藤と戦い文字通り地獄の苦しみを味わったという事実があります。そのことからこの映画を「よくわかんねーからつまんねえ」の一言で片付けられない気持と又逆に安易に「わかる」とも言いがたい気持ちがあります。私は。, 何が言いたいのかわからないのはそもそもあの映画が正に「黙示録」だから。黙示とは黙して示す、つまり、「暗示」しているわけですね。あの映画は全て暗号で組み立てられていると言っても過言ではない。その暗号構造が極めて「芸術的」であると言えるでしょう。 コナン・ザ・グレートは2回ぐらい、テレビで見たことがありますが、これもかなり前のことで、情けないことに、今思い出せるのは、粉引きの大きな機械みたいなのをぐるぐる回しながら力強い大人に成長するシーンぐらいです。これも記憶違いだったりして。(笑) よろしくお願いします。 フランシス・フォード・コッポラ監督によるベトナム戦争を描いた映画『地獄の黙示録』。前半の残虐的な戦争シーンと打って変わって後半は、王国の物語になっていきます。前半と後半のテイストの違いをここでは分析して見たいと思います。 一言で言うと、主体的に目的を持たず、流れに流されるままにカーツに会いに行く訳でして、自分で何をやっているのかよくわかっていない主人公に共感するというのは観客にとっては、割とつらいことです。観客と言うものは上から目線で映画をみているものですから、主人公の苦悩を本気で共有したいとは思っていないもんです。目的の分からない主人公とともに、物語の目的の不明なままに時間も三時間も耐えることが無理なのが普通の人間と言うものです。, 任務を申し渡されても、まだベットで寝ようとするウィラード。物語の目的を無視して惰眠むさぼるにふさわしく<−向きですが、, 単に眠気覚ましに無理やりシャワーを浴びさせられるシーンですが、 そのような古典的な陣地戦の描写とは異なる表現が使われえいる。, ひとつには、機動力の高いヘリコプターの投入された戦場であり、ヘリが戦う姿を描こうとするなら、画面の方向は頻繁に切り替わることになる。, また、物量的に遥かに劣る解放軍は、互角の戦闘を行えていないので、−> <−の戦闘が成り立っていないとの解釈も可能であろう。, つまり解放軍は敵ではないということなのだろうが、それなら、ウィラード達の敵は何だったのだろうか?, キルゴアのようなガイキチ紙一重の軍人が敵なのだろうか?というと、日常世界の常識を持ち出して、そのような解釈を無理強いしようとする人がいるわけです。そういう解釈を成り立たせるためには、このシーンが映画のクライマックスであるべきだ、と言うような主張を往々にすることになるわけでして、 ウィラードが無線を切るシーンが爆激を思い留まった証しなのだという解釈をする向きもあるようだが、それも無理な拡大解釈に思える。あのシーンは王国を離れたウィラードが流れてくる無線を鬱陶しく切っただけ。あのあとウィラードは王国から遠く離れてから爆撃を連絡したのだ。, ●解釈は人それぞれだ。ただ「Drop the Bomb. その途中で数々のベトナム戦争の現状を見ていくのです。, そして次第に部下達がおかしくなっていく様子も見ます。 『地獄の黙示録』劇場用パンフレット 私のみるところ、これら三作品に共通する要素と言うのは、基本的に主人公が流されるだけで目的を追求しないと言う点です。 この映画に於いて主人公は何と戦っていたのかの問いには、冒頭のシーンで答えを出していたわけです。 そして、もしも記憶が正しいとすれば、 そして、物語の目的を見据える−>側の立ち位置を最初に否定してしまっているのですから、物語の中には、目的が何なのかがほぼ見えなくなってしまっています。, それまでの価値観、安住できるモラル、祖国アメリカへの信頼、そういう既成の価値観を否定することが河をさかのぼる過程で描かれ、否定した後に何が訪れるかをカーツの王国で描いている、私には、そう見えるのですね。, この自己否定というのは、ウィラードの主役個人のものではなく、おそらく監督コッポラのものでもあり、更には、観客も共有すべきものなのでしょう、, この、カメラ目線のこぶしを固めるシーン。結局、彼が一番の敵だと認識して殴り壊すのは自分の虚像ですが、もし可能であるとしたら、みている観客を殴りつけたかったのではないでしょうか?, 冒頭の鏡を割るシーンではドアーズのジエンドがBGMに流れていますが、これがラストのカーツの暗殺のシーンへと繋がっています。, ウィラードは、もともとマックウィーンに振った役で、ブランドと派手に戦うシーンが初期段階では想定されていたそうですが、 土着の人たちのようになっていったのが、カーツ大佐だったのです。, 文明とかけ離れることで、人間の心の奥にある本能に支配され始めたのがカーツ大佐だったのです。, 映画の画面では前半の方が激しく感じますが、人間としては後半の方が獣で本能で戦っているのです。 もしかすると、これは、古きよき時代の分かりやすい正義の形は、ベトナムの戦場では見出せない、と言う意味の映像表現なのだろうかと勘ぐってみる。, ヘリの飛んでいく方向が<−主体なのだから、それを迎え撃つ解放軍はー>であるべきなのだろうが、 ・カットされていないビデオはないのか? いくつもの連なったヘリコプーたーが陸地を目指して飛んでいくシーン。 さてその暗号「2冊の本」を使って何を言おうとしているかというと、ベトナム戦争をしているアメリカ、或いは戦争をする人間というものを「病める王と王が病めるゆえ雨が降らず荒地となっている国土を聖杯探しにより救う」という中世伝説になぞらえて解釈して救済されようという事を描いています。 今日は、とりあえずフランシス・フォード・コッポラ監督(ゴッドファーザーなど)の手がけた戦争映画「地獄の黙示録」を観ました。それを紹介というか、ネタバレというか… 自分の日常生活になじんだ「常識」から考えて、『地獄の黙示録』の脚本構成が狂っているとかたわけた事抜かす前に、『ゴッドファーザー』でもみてから、コッポラは常人ではかなわない相手とまず理解したまえよ、と私は思うわけです。, あまりのキルゴアの飛ばしっぷりに、ウィラードは目が点になってたりしますけれども、 1979年に公開された『地獄の黙示録』(日本では1980年に公開)は、コッポラが『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART II』の成功で手にした私財を投じるなど、映画作家としての人生をかけた渾身の一作として知られる。カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルムドールに輝き、アカデミー賞では撮影賞と音響賞を受賞。今なお戦争映画の傑作として威光を放っている。 新たに公開されるファイナル・カット版は、コッ … 「(立花隆の)知人もカーツの遺言に従ってウィラードが宮殿を爆破させたと考えたのだが、これもとんでもない勘違いだ」 主人公が目的を追求しないのだから、アメリカ式の脚本作法では、これらの作品は物語として成立していないと言う烙印を押されかねない危ういものであるのです。 そこで、私が知りたいことは ただし、何が分からなかったのか?位は各自自覚的であるべきだろうと私は思います。, baphooさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog つまりこれからの3時間自己否定を延々と描いている映画な訳です。 そう捉えた。, 最初の公開版を観た多くの人はそう捉えたと想像する。しかし映画が公開されてから「そういう捉えかたは自分の意向とは異なるものだ」とコッポラは公言することとなる。, ●最初に公開されたフィルムにはラストの大爆破シーンがあったのだが、コッポラは後に誤解を招いたとしてこのシーンを削除。エンディングはブラックアウトさせた。DVD化されたときに、特典映像としてこの爆破シーンは収録されていたが、特別完全版では完全に取り除かれている。, ●この映画の評論では立花隆が最も有名であるが、立花隆は そしてそれを阻害する悪役等の立ち位置は向かって左側となります。, ちなみに、主人公がその基本の立ち位置を放棄した場合、どうなるか?と申しますと、物語の流れが主人公にとって逆流しています。これは主人公にとって困難な状況であり、ただ逆流に耐えている状態、目的の追求を放棄した場合を表現することになります。, 世の中には、『地獄の黙示録』以外にも分かりにくい映画があります。『ブレードランナー』は今になってみるとそんなに難しい映画でもないような気がしますが、それでも分かりにくさゆえ公開時には、ラストを差し替えられることになりました。『甘い生活』フェリーニの作品ですが、散漫にエピソードが続いていくだけの退屈な作品という意見が今でもかなりの割合の人に支持されています。 カール・フレンチ著、新藤純子訳「『地獄の黙示録』完全ガイド」扶桑社. ではそれでハッピーエンドだったのかと言うと、 ・そもそも上記の私の記憶は正しいか? 『西部戦線異状なし』にしろ『突撃』にしろ敵は敵軍ではなく、 だから映画として面白くないとか下らない映画であるとか、そういう問題とは別ですけれども、 エレノア・コッポラ著、原田眞人・福田みずほ訳「ノーツ──コッポラの黙示録」マガジンハウス刊 しかも変わり始めている自分自身にも気がついていました。, 『地獄の黙示録』の前半は激しいベトナム戦争の状況を過激に描き、音や映像からそれを伝えようとしています。, 後半はカーツ大佐をウィーラード大尉が見つけてからの描写になります。 「カーツを殺した後、ウィラードが武器を捨てると、原住民も武器を捨てる・・・これが平和主義への主張だ」 「この映画は一体何を言いたいのだ?」とみていて疑問に感じることは、実は一番正しいことなのではないでしょうか。 もう、ひとつの批評としては十分なんですよ、ただし、つまんないですけど。, だから、そんな自分が読み取った粗筋を元にレビューするくらいなら、キャプチャー画像に対して語ったほうが、遥かに信憑性、客観性が高いよな、と私には思われます。 最新兵器を使っているアメリカ軍がなぜ勝利できないのか。, ベトナム兵は武器ではなく、その心だけで戦うのだと。 「カーツが残した走り書きから宮殿を爆破させたというのは勘違いである」 「なんか変なものを見ちまった」的な印象をもつだけでお仕舞いにされてしまうことになりかねません。, こういう、主人公が傍観者である映画は、ジャングルなり都市の退廃なり未来の荒廃なりの本来の背景が主役であると解釈して、瑣末な箇所をちくちく楽しむと言うやり方のほうがより的確であるように思われはしますけれども、, 映画に於いてより注目すべきなのは、傍観者である主人公が、どことどこで主人公の立場に戻り、目的を見据えていたのか、もしくは見据えようと努力したのかに於いて現れる、 ●だがコッポラはDVDの特典映像において、ラストの大爆破はそういう意図ではなかった。観客に勘違いされたから取り除いたと説明した。立花隆も、あのシーンはカーツの行為が作り出した悪の宮殿を爆破しろとしたものではないとしている。, ●いやそうではない。コッポラの発言は詭弁であり、立花隆の解釈はコッポラの詭弁に則った解釈だ。コッポラは当初、カーツが作り出した狂気の王国をカーツの意志で最後にはすべて消し去るという筋書きをもってこの映画のエンディングとしたのだ。だが、世の中の情勢、スタジオ、軍、アメリカという国の世情、映画界だけではなく、ベトナム戦争に対する世の中の考えなどからコッポラはラストの爆発は自分にとっても、この作品にとっても、よくない影響を及ぼすと危惧し、恐れたのだ。だからコッポラは後付の説明で「あれは間違いだ、多くの人があのラストの大爆破シーンを入れたことで映画の意味を勘違いしてしまった」と・・・言い出したのだ。これは後付けの理屈と言うものであろう。, ●最初の公開版はその時点でコッポラが考えた映画の流れであり、結末だったのだろう。カーツが希望したものは《狂った戦争とそれがもたらした狂った存在である自分自信、自分が作り上げてしまった狂った王国と原住民組織への決着》だったのだ。カーツはそれをウィラードに託したのだ。そうでなければ「Drop the Bomb. 実を言いますと、私のまぶたにある生首シーンの記憶が、コナンザグレートと混同しているものでないか気になっていまして、それを確認するため、近辺のレンタルビデオショップで、コナンザグレートを探しているんですが、なかなか見つかりません。 結果として主人公がこの方向に動いていくと言うものではなく、元来この方向に動くのが初期設定としてきまっているのです。 『地獄の黙示録』(じごくのもくしろく、原題:Apocalypse Now )は、1979年公開のアメリカ映画。フランシス・フォード・コッポラによる戦争映画。ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を原作に、物語の舞台をベトナム戦争に移して翻案した叙事詩的映画(エピックフィルム)。 ウィラード大尉にしろ、デッカードにしろマルチェロにしろ、ただ命じられるままに特異な状況に投げ込まれます。そしてほとんどその状況を変えるために何かしようとはしません。ひたすら傍観者的に振舞います。 しかし、それにしたところで、それは本当にこの物語を貫く目的と言えたのだろうか? それ以外は、直接的と交戦するシーンがないといっていいのではないでしょうか。 どうもそうでもなさそうです。, カーツ臨終の言葉は、呪いのように今後もウィラードについて回るようです。それゆえ、カーツ死してもその頭の向きは変わらず「北枕」しません。, 相変わらず、船は<−の方向にしか進めなさそうです。 その途中で部下達がどんどんおかしくなっていきます。, それ自体がカーツ大佐の辿った道だったのです。 ●立花隆は 「よくわからなくなってきた」、おそらくそう感じることが主人公ウィラードに共感する一番の近道なのでしょう。, では、この映画には、明確な敵が画面上のベクトルとして示されることは無いのか?よくわからない、結局何がいたいのか分からなかった、で済ませるべき映画なのか、と言うと、決してそうではないのですね。, 主人公は、本来目的の存在する−>の方向を向くべきであり、その為に画面の向かって左側に立つべきなのですが、, このシーンを単なる気まぐれで差し込まれたものであると解釈しないのでしたら、 ブログを報告する, あの状態で武器を地面に置くことが平和のメタファーだというのは飛躍し過ぎた、余計な深読みであり邪推だ。, それが自然な物語りの流れであり、登場人物と台詞から繋がる意志の表れだ。そう解釈するのが極めて自然だ。, http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/apocalypsenow/index.html, 『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気は…, 『スターウォーズ9 / スカイウォーカーの夜明け』環は完結した。Circle is completed 収まるべき鞘に間違いなく正しく収まってくれた。, 『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気はジョーカーではなかった。. 出来上がった作品を見てみますと、キルゴア同様カーツ大佐も、ウィラードとー> <−の対立構図を画面では作り出してはいません。別に敵ではないのです。, 結局、この映画で、ウィラードが主体的に行動するのは、このカーツ大佐の暗殺を実行することのみ。 物語の進行方向とは逆のネガティブ方向<−に向かう。たかだかサーフィンするために、出撃すると言う異常行為への嫌悪感を表明するかのようにネガティブ方向に出撃。, このシーンが西部劇の騎兵隊の出陣シーンになぞらえられたものであると言うのは、よく言われる指摘だが、ラッパを吹く方向と部隊の出撃方向が食い違っていると言うのは、普通にあることなのだろうか? 私にはそのように考えられます。, この映画では、ウィラードの立ち位置だけでなく、カンボジアに向かう船は、基本、<−に向かって進みます。 フランシス・フォード・コッポラ監督によるベトナム戦争を描いた映画『地獄の黙示録』。前半の残虐的な戦争シーンと打って変わって後半は、王国の物語になっていきます。前半と後半のテイストの違いをここでは分析して見たいと思います。, サイゴンのホテルに滞在していたアメリカ陸軍のウィラード大尉は、軍上層部からカーツ大佐の暗殺を命じられる。, カーツ大佐は任務で訪れたカンボジアのジャングル奥地で勝手に自らの王国を築きあげ、軍から危険人物とみなされていた。, ウィラード大尉は部下たちを連れ、哨戒艇で川をさかのぼってカーツ大佐の王国を目指すが、その途中で戦争がもたらした異様な光景を次々と目撃する。, 『地獄の黙示録』の中で有名なシーンといえば、夕日をバックに飛ぶヘリコプターのシーンです。 芸術性実現を理由として「暗示」的な構成になっているわけですが、暗示的な構成をもつ、もうひとつの大義名分として映画が「米国批判」な内容であるという事実があります。まあ、大して目くじら立てるほどのもんじゃないんですが(何しろアメリカは言論自由の国)、そういう「言論できない」という悲劇性をあの映画は付帯させているという図式があります。つまり、まともに「ベトナム戦争はおかしい」と発言したら米国批判になるので、暗号でものを言わざるをえなかったという感じですね。目くじらたてるほどの物ではないというのは今となってはであって当時(アイデアは戦中に生まれた)はベトナム戦争批判は大変なことであった。事実この映画は米軍全面非協力のうきめにあい、ヘリコプターなどはフィリピン軍から借用せざるを得なかった。 お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, ベトナム戦争の映画でオススメはありますか? 「編集が最終段階を迎え公開準備に入った頃、この作品は様々な物議を醸し出した。長期にわたる制作、マスコミへの発表完全に伏せられとてもミステリアスな映画として話題にされていた。そしてなにより議論の的となったのは事実とは裏腹に二つのエンディングがあるという説だ。そのような印象を与えた理由を説明しよう。映画の編集過程では様々な映像を用意して試行錯誤する。その一つとしてカーツ王国の爆破があった。フィリピンに建設した王国の建物は撮影終了後、撤去することが法律で決められていた。そこで爆破することに決め、多数のカメラと赤外線フィルムを使って幻想的な映像を撮ろうと考えた。この映像を本編で使うことも出来るだろうと考えてもいた。ウィラードがカーツの権威を継承するエンディングでは私自身の未来への展望が込められている。現代における戦争という究極の戦いを踏まえた戦争のない未来への願い。武器を捨てるウィラードとそれに従う原住民たち。ランスの手を取って歩く姿は新時代の到来を象徴する。そのため、空爆によって原住民を殺害するのは私の求めるテーマに反する。 遅くなりまして申し訳ありません。 | と記述している。 exterminate Them ALL」という走り書きを残した。そしてカーツはウィラードに殺される事を自ら受け入れた。カーツの走り書きを見たウィラードはカーツを狂気から開放した人物となった。カーツを殺したことはカーツを救ったことになったのだ。それは父を救う子の姿でもある。カーツの走り書きは遺言でもあったのだ、自分自信が狂ってはいない、自分はまっとうな軍人として死んだのだとしてくれ。だから、自分が作り上げたこの狂気の王国をこの世から消し去ってくれ。それがカーツが自分の命を差し出してウィラードに託した最後の望みだったのだ。だからウィラードは王国を爆破した。そう考えるのが流れとしても筋が通る。, ●爆破シーンを削除してしまったのではカーツの最後の望み「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」というカーツの走り書きが何を意味するか全く中に浮いてしまう。, ●当時のアメリカ軍やアメリカ国内のこの映画に対する反応は非常に手厳しかったと言われている。批判的な意見が溢れ、スタジオまでもが及び腰になり、米国内での公開すらどうなってしまうか分からないと危惧されていたという。コッポラはこのままでは自分に対しての批判、映画に対しての批判が大きくなる。スタジオとの関係も考え「あれは違う、多くの人が勘違いをしている。私はそういう意図であの爆破シーンを最後いれたのではない」と状況に歩み寄り、摺り合わせた”嘘”をついたのだ。”詭弁”を弄したのだ。自分の編集したラストを変更し、自分の作った作品を世の中の批判、非難から遠ざけ、安全なものにすり替えたようとしたのだ。, コッポラは世の中の、当時のアメリカ社会の目とそこから生じた圧力に合わせて自分の映画を改変し、捩じ曲げたのだ。, ●それが自分のこの映画に対する、コッポラに対する結論である。立花隆の主張するラストの意味付こそが物語の流れを考えず勘違いした、自分の都合よく解釈しようとした深読みなのだ。, ●出来上がってしまったものでも、後付けで監督が何とでもいいように言える。観客の解釈と監督が意図したものが違うことも多々ある。ただし、繋がった映像、台詞、演技による整合性があるものが最も解釈として正しいとすべきだ。, ●息子の話、父親の話をしていたカーツ、自分が作り上げたジャングルの中の王国、その王として君臨する自分自信の苦悩。戦争という狂気の中で自分が辿り着いてしまった狂気の場所。それをカーツは末梢したかった。それこそが人間を狂わせた戦争に対する反意志なのだ。だからカーツは「Drop the Bomb.  現代において「○○黙示録」などと使われる場合、終末的な記述や人間の絶望的な状況の記述がある場合に用いられていることがよくあります。それは「ヨハネの黙示録」の影響が少なからずあると思いますが、厳密な意味での黙示文学とはほとんど関係ないと考えていいと思います。, ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。 exterminate Them ALL」というメモを見たウィラードが、狂気の場所と化したカーツ大佐の城をすべて焼き払う。自分は狂った人間ではない、威厳ある父親としての姿を息子に伝えて欲しいとカーツはそうウィラードに託し、自分が作り上げ(てしまっ)た狂気の軍隊を、その場所、自分の所業の全てを抹消してくれとウィラードに頼んだのだ。最初にこの映画を観たとき、そう解釈した。 映画の感想ブログです。基本的にその映画が観たくなるように、ということを意識して記事を書きたいと思っています。, 出演:マーロン・ブランド、ロバート・デュヴァル、マーティン・シーン、デニス・ホッパー、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール、サム・ボトムズ、ローレンス・フィッシュバーン、ハリソン・フォード, 実は今回の「ファイナル・カット」IMAX上映は観れていないんですが、何かとお出かけしにくい昨今、おうちでの鑑賞の参考にでもなればと思っております。, 「地獄の黙示録」は大好きな映画で、何回も観てるんだけど、観るたびに、後半退屈で退屈で、早く終わらないかなあ…とか思っちゃうんですよね(失礼!)。, それなのに、終わってみると、すごい満足感がある。面白い映画を観た!という感動があって、しばらくするとまた観たくなる。, 逆に後半を評価する場合は、一気に難しい話になりがちなんですよね。「闇の奥」とか「荒地」とかの文学的な話になるか、あるいは政治的・歴史的な話になるか。どっちにしても眠気を誘いがち。, でも、そういうのではない、もっと感覚的な部分での面白さが本作にはあると思うし、後半にもやっぱり映画的な快感はあると思うんですよ。, 少なくとも僕にとって…ですが、それはやはりこの映画全体が、一つの巨大なカオスであること。, 「地獄の黙示録」は、もうその制作過程から混乱しています。それは有名なドキュメンタリー「ハート・オブ・ダークネス」を観ても歴然ですが。, 莫大な予算、遅れる日程、ジャングル、台風、セットの崩壊、デブで言うことを聞かないマーロン・ブランド、そういうただでさえ混乱状態の撮影プランの中で、日々撮影が進んでいくのにラストが決まらない。収拾の付け方が分からない。, そんな制作状況で、アドリブに近いような撮影をして、どうにかこうにかまとめ上げた映画ですからね。「精巧な構築美」などというものとは程遠い。, だからまあ、プロの仕事という面では褒められたものじゃない。コッポラの力技で何とか形にした映画だとは思うのです。, それは、本作の題材であるベトナム戦争が、まさに巨大なカオスそのものであるということ。, 映画の制作過程に起因するカオスが、そのままベトナム戦争という巨大な泥沼プロジェクトのカオスを体現していて、結果超絶的なリアリティに繋がってるということだと思うのです。, 普段は生命尊重を謳ってるはずの人間が、いきなり殺すことを是として行動し、相手勢力の殲滅を目指して大規模な行動を起こすのだから、理性的であるはずがないのです。, この間の「1917」にしろ、ノーランの「ダンケルク」にしろ、スピルバーグの「プライベート・ライアン」にしろ、それぞれのやり方で戦場の臨場感を追求しています。, 殺し殺されることが日常になってしまう、異常な空間における恐怖や緊張、ストレス、絶望、そして混乱と狂気。, どの映画もそれを再現しているんだけど、でもやっぱりそれはあくまでも「再現」であって、「映画」なんですよね。シナリオがあって、構成があって、しっかりと観客にとっての見やすさ、わかりやすさを担保した上で、その枠の中で混乱を再現してる。, 「地獄の黙示録」にはそれがない。観客にとって親切な「枠組み」というものがないんです。, 主人公たちの行動は、上流へ行ってカーツを殺すという目的ははっきりしてるけど、それ以外は基本的に行き当たりばったり。, 狂った上官の戦闘に参加し、サーフボード盗んで逃げ出し、トラに出会って逃げ出し、怪しいボートの一般人は皆殺し、プレイメイトがいれば興奮して、矢を撃ってくる現地人にはマシンガンで応戦する。, 何の理屈も筋書きもない。ただ、その都度目の前に現れる出来事に反応して行動することの連続。, ただ反応しているだけだから、そこには何の意味も立ち現れてこない。ただ、意味のない場当たり的な行動が連続するだけ。, ワルキューレには高揚し、死の恐怖には神経をすり減らす。興奮と恐怖が脈絡なく交互にやってくる。, そんな場所では、一貫した感情も、それに基づいた行動もあり得ないんですよね。ただ、状況に反応することだけが感情となっていくのです。, そして、まさにこの脈絡のなさ、ただ起こることに反応するだけで、一貫した意味や感情が失われていく感覚。, でも、殺し合いが日常である環境というのは、きっとそうならざるを得ないんじゃないかと思うんですね。, この映画から、観客に親切な枠組み、映画らしい起承転結といったものが抜け落ちているのは、初めから明確に意図されたものではないと思うんですよ。, やはり、ジョン・ミリアスの脚本の気に入らないコッポラがその場で脚本を書き換えて、即興的に撮影を行なっていったことの副産物。現場の混乱状態の反映でしかないと思うんですが。, 作為のない、本物の混乱状態を描き出しちゃってるという、これは奇跡のような怪我の功名ですね。, 映画は後半になるにつれ、どんどん疲れ、消耗し、陰鬱になっていきます。状況はどんどんカオスの度合いを増していき、主人公たちはどうしていいか分からなくなっていく。, それはまさに、この撮影をどうしていいか分からなくなっていくコッポラの心理そのままのように。, 映画の結末をどうつけていいかわからないコッポラの悩みが、そのまま映画に現れちゃう。ここまで作り手と映画の中身が一致するというのも、前代未聞だと思うんですが。, で、時間稼ぎのように、コッポラはカーツにいろいろ「なんか哲学っぽいこと」を語らせたり、詩集を読ませたりします。, この辺り、マーロン・ブランドの即興が多かったみたいですね。結末の脚本がまだ出来てないので、冗談抜きで本当に時間稼ぎだったりします。, 上記したように、ここまではただひたすら、目の前に降ってくる状況に反射的に反応する様子ばかりが、描かれてきました。, それに対して、カーツは「思考と意味」を体現している。反射も行動も何もなく、ただ暗がりにじっと座って、難しげな古典文学を読んで、何か意味ありげなことを考えている。, でも、それは実際のところ、マーロン・ブランドが期待に反して太りすぎでやってきたことをごまかすために他ならなかったんですが。, 異常な状況、あまりにも意味のないように思える状況に置かれると、人間というものはどうなるか。, 人は、意味のない状況には耐えられないものです。しかも、そこに自分の生き死にが左右されるのであればなおのこと。誰だって意味もなく死にたくなんかないですからね。, 戦争という状況で、意味もなく殺したり、自分が死んだりすることを受け入れるなんて、どうしても耐えられない。, だから、どうにかして意味を読み取ろうとする。意味のないめちゃくちゃな混乱から、何か意味のあることを見出そうとしてしまう。, コッポラも、同じで。自分が作ってきたこの映画が、ただベトナム戦争の混乱と無意味をそのまんま体現してしまっていることに気づいて、「いや、やっぱりなんかもっと深い意味がないとマズイんじゃないか…」と思ってしまって、何としかして意味を見出そうとしてしまってる。, そういう状況に陥ってる。それが、映画の終盤、カーツ王国に入ったところで起こってる、だらっとした停滞の正体なんだと思うのです。, だって、意味なんかないですからね。いつまで考えたって、何も見出せるはずなんかないのです。, だからこの後、ウィラードが「別にこれといったきっかけも、意味もなく」カーツはやっぱり殺そう!と決意して、顔にペイントして沼から現れて、牛を殺すお祭りに合わせて牛刀でカーツをぶっ殺す。ここが強烈なカタルシスを生むんですよ。, これ、「意味なんてねーよ!」っていうツッコミですからね。観ていて非常に気持ちがいい。, 映画館で観たのは2001年の特別完全版の時でした。この時に大きく増えたのが「フランス人の植民農園」のシーンで。正直、これ切って正解だったんじゃないかなあ…と思ってしまったものでした。, これによって政治的・歴史的な視点が強化されたのだ…ということが言われていますけど、僕は正直その辺まったく興味が持てなくて。, 「地獄の黙示録」の魅力は、上に書いたようなカオス・混乱・混沌だと思うんですよね。だから、説明的な解説を付け加えるようなシーンは蛇足にしか思えなかったのです。, さらに言うと、僕が最初に観たビデオソフト版では、映画を締めくくるのは空爆によってカーツ王国が炎上するシーンでした。これも非常にカタルシスがあったんだけど、「特別完全版」以降は削除されてしまって、ウィラードがボートで去っていくシーンで静かに終わるアンチクライマックスなんですよね。, コッポラの意図はそうなんだろうけど、でも映画の気持ち良さとしては爆発・炎上はあってほしいなあ…。, ウィラードが武器を捨て、原住民たちも武器を捨てる。そこがコッポラの意図だから、空爆はそれと正反対…ということなんだけど、でもその前にウィラードはカーツを武器で殺してるわけで。, 映画の流れに自然に則しているのは、むしろ王国を原住民もろとも焼き尽くすこと…なんじゃないの?と思っちゃいます。, このシーンが出たり消えたり、ストーリーの解釈が公開後もころころ変わっちゃうのも、コッポラが最後の最後まで悩んでいたことの表れなんですよね。, 作り手の真剣な迷い・悩みが映画そのものに影響していて、その結果としてちょっと他にない、一種独特な映画になっているのがこの「地獄の黙示録」という作品だと思います。, 「地獄の黙示録」はいったい何が面白いのか…についての考察 ネタバレあり | MOJIの映画レビュー, 映画の制作過程に起因するカオスが、そのままベトナム戦争という巨大な泥沼プロジェクトのカオスを体現. それは新しい王の誕生のようにも見えました。, カーツ大佐を探し川を登るウィーラード大尉。 映画のレビューで一番多いのが、自分で勝手に映画の粗筋を解釈しておきながら、それについてどうこう論ずると言うパターンです。, まず、その解釈って、正しいの? そんでも、どこのどんな画像をキャプチャーしたかというのも、ひとつの解釈であって、自分の解釈に対して自分の意見を述べていると言う謗りからは完全に免れ得ないとは自分でも分かっておりまするけれども。 だからこそアメリカがこの戦争に勝てないのだとカーツ大佐は言っていたのです。, 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』映画前売券(一般券)(ムビチケEメール送付タイプ), ドキュメンタリー『グレート・ハック SNS史上最悪のスキャンダル』SNSで世界を操る企業. やりたくて始まった任務ではないですから、このようなカットのつなぎがふさわしいのでしょう。, このようなことを考えていくと、果たしてこれは戦争映画なのだろうか?と言うことに思い至ります。元ネタの『闇の奥』からして戦争映画ではないのですから、どうやらこれは戦争映画ではないのではなかろうか、分けのわからない状況に突っ込まれて何かを見失うだけの話なのではないか?と考え込んでしまうのですが、 主人公が、主人公の低位置に立って目的を追求できない作品と言うのは、「この映画は何を言いたいのか分からない」と言う感想をもたれやすいようです。 王国の爆破は私の意に反して、いかにも戦争映画らしい終末論的な結末としてとらえられた。それに気がついた私はタイトルバックを変更した。爆破シーンではなく、黒字のバックを使った。どう考えるかの判断は観客に任せる。だが、この爆破シーンは物語の延長や第2の結末ではなく、完全に独立したものだったのだ」, 参考:空腹板:http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/apocalypsenow/index.html, ●フランス植民者の農場のシーン。そしてプレイメイトの慰安訪問でのダンスシーン。両方ともイメージが強い。ブルーのミニスカートで腰を振って踊るプレイメイトのシーンはCMや予告編でも多数流されていたが、あのシーンには戦場の悲しさや悲惨さがよりこもっているように感じる。, 未完・・・・この一作は徐々に追記 そして、主人公を取り巻く環境が以上であればあるほど、観客が映画に求める目的は、完全にかすんでしまい、 おぼろげな記憶なのですが、二十数年前、日本公開され始めた当時、劇場で見たときは、映画のラストに近いところのシーンで、カーツを崇める民衆の目の前の階段に、主人公がカーツの生首を投げて、その生首が階段をコロコロ転がり落ちるシーンがあったような気がするのです。 《特典映像(機密映像と書かれたDVDの表示が笑える)カーツ大佐”王国”の破壊》より。 そしてそこで聞こえるヘリコプータの音。, それ以外にも、爆撃を落とし炎で燃え上がる農園、敵地に「ワルキューレの行進」をかけながら攻撃を仕掛けていくキルゴア中佐など、激しい戦場のシーンが思い浮かぶのが『地獄の黙示録』です。, 放題についた「地獄」という表現からもベトナム戦争の地獄を描いているのかと思われるシーンでもあります。, 女性も子供も関係なく攻撃するアメリカ軍。 では、画面はウィラードとキルゴアが戦争でもしているかのようにー> <−の構図を作り出しているのかと言うと、そういうことも無いわけですわね。, キルゴアは、右を向いたり左に進んだり、かなり縦横無尽に画面を歩き回ります。映画の台詞で「キルゴアは部下思いのいい軍人のように思える」とウィラードの語りが入りますが、 「地獄の黙示録 特別完全版」(HERALD)のビデオをレンタルしてきました。 しかしそこから前半の勢いとは変わり、物語が心理的に描かれ激しさはなくなっていきます。, 前半全く登場しなかったカーツ大佐。 この映画はエリオットの「荒地」と言う詩集からの引用もベースになっている。これも西欧人なら普通誰でも知っているようなものらしいです。 世の中には、『地獄の黙示録』以外にも分かりにくい映画があります。 『 ブレードランナー 』は今になってみるとそんなに難しい映画でもないような気がしますが、それでも分かりにくさゆえ公開時には、ラストを差し替えられることになりました。 正しくなかったら、単なる独り相撲じゃないですか、というか、独り相撲という詞がここまでふさわしい行為もなかなかあったもんじゃない。, どういう物語だったかをべらべらべらべら語るレビューと言うのは退屈なんですが、雑多な場面の画面のつなぎ合わせから、どういう物語を読み取ったかと言う時点で、それはひとつの解釈なのですわね。 販売元の名前はバーコードに隠れて、よく見えませんが、目玉のマークが見えるので、フジサンケイグループのどこかのようです。 こと映画に限っては、 「退屈」はイコール「つまらない」ではない …という。 その辺りを、なんとか文章にしてみたい…というのが今回の記事の試みです。 ②制作過程に起因する巨大なカオス. 文明に生きていた兵士達が、ジャングルの奥にどんどん入っていくことで次第に獣のようになっていく様子を描いていたのです。, 顔にペインティングすることもその1つです。 たとえば「病める王」はアメリカ大統領の事で、あの映画のボートの乗組員の一人ランスが大統領を意味しています。その暗示の仕方はランスの姓がジョンソンで、受け取る郵便物で分かるのですが、ミドルネームのイニシャルがBで「L・B・ジョンソン」であり、L・B・ジョンソンといえば当時の米大統領のジョンソン大統領の名前なんだそうです。ランスはあのキルゴアに気に入られるサーファーですが、要はベトナムを何も知らないカリフォルニアのサーファー青年(=ジョンソン大統領)がベトナムに入ってゆき狂気に陥り、ベトナム戦争の決着を見、ウィラードという勇者に手をひかれて救済されるという図式です。ラストの雨は「救いの雨」であります。 以下、ご参考のために、このビデオの素性と特徴を紹介しておきます。 その考えこそ大いなる勘違いであり愚かなる邪推なのだ。 サム・メンデス、人生はワンカットで体験するもの『1917 命をかけた伝令』インタビュー, 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』リアルとファンタジーが絶妙に混じった、タランティーノならではのおとぎ話. 上記は暗示の一例ですが、このようにこの映画は膨大な暗示によって構成されているのです。ただ、コッポラ自身「この映画は単なる戦争スペクタクルという見方から、深く読もうと思えばどこまでも深く読む事ができる」と語っているように何が言いたいのかは無限に議論できるようなのです。 しかし彼の顔にはカーツ大佐と同じようなペインティングが施されていました。, カーツ大佐の死を知った住民はウィーラード大尉の姿を見てひざまづきます。 ●アメリカ映画が、映画であったのは、この映画までだったのではないか?そんな風に思う。, ●心してみなければならない、背筋を伸ばし、真剣に対峙して見なければいけない、そういう映画でもある。, ●劇場公開時に観た記憶に残っているのはラストの宮殿の大爆破とドアーズのThe End が重なって流れる映像。「これで終わりだ、友よ、たった一人の友よ、全て終わりだ」そう叫ぶジム・モリソンの歌とともに赤くジャングルが燃え上がるラストシーンが特に印象的だった。 ラストシーンの後に「copyright 2000」という文字が画面の隅に出てくるので、4年ぐらい前に編集し直されたのかもしれません。, 「バーコード 名前」に関するQ&A: 携帯からサイトにいけるバーコードみたいのの名前は?, ありがとうございます。 チャンスはあるのに、カーツ大佐を殺せないのです。, それでも決意して自分の任務を行ったウィーラード大尉。 とコッポラと同じ立場をとっている。地獄の黙示録を解説する自身の著書の中でも 一体どんな人なのかと思い描きながら、観客もカーツ大佐の登場を待っていました。, そして現れたカーツ大佐はアメリカ軍の兵士ではなくなっていました。 「プラトーン、地獄の黙示録、ワンスアンドフォーエバー、フ, 地獄の黙示録を見たのですが意味不明でした。結局何が言いたかったのか分からないですし、後半から迷走して.

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