いろんな方の説明を聞いて、なんとなく JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, 王政と社会主義って両立できますか 妻はたまに職場の同僚と仕事終わりに食事や飲み会などに行ってます。私は行くことや帰りが多少遅くなることは気にしておりません。 理解で良いのでしょうか? 誰もタイトルつけさせてくれへん。誰か…聞こえてますか…僕にタイトルつけさせてくれませんか…, またエキセントリックなオーダーきたなw「果たして資本主義と民主主義は両立するのか問題」とかは読んでみたい気も。可燃性高そうですがw, 大好きな桜川さんのために、僕の、僕による、桜川さんのためのコンテンツを書いてみる事にする。, 昔から挨拶とスカートの丈は短い方がいいと言いますが、結論から言うと両立するし、すでにしてると思うんです。, と言う訳にも行かないので、最近読んだ面白い本の感想を踏まえながら、考えていきたいと思います。, この本について、読んだ事のある人も読んだ事のない人も篠田さんのこのサマリーを読むととても役に立ちます。, インターンの学生に書いてもらった記事にも書いてあるんですけど、このヤニス・バルファキスさんの本は、個人的にすごく面白かったです。, で、何が面白かったか?と言う事を書いて、タイトルの果たして資本主義と民主主義は両立するのか問題について僕なりの今の結論をご説明していきます。, だからこそ、その体験価値を高い交換レートで交換している商売が存在していると僕は考えています。, このnoteにも書いたんで、詳細は有料でお金を払って読んで頂きたいとこですけども、それはあんまりなんで, なぜか資本主義と言うのは、あくなきスケールの追求と成長する事がお約束となってますので、規模の拡大をしていこうとすると合理的なビジネスだけが注目されてしまうんですけど、僕はこれから好意度を追求するビジネスも相当に面白いと思っています。, 今やTikTokやsnapやInstagramやTwitterで誰もが一夜にしてアイドルになります。, それと同じで、情報流通のプラットフォームが日進月歩で次々に登場しては、コンテンツの力を増幅させています。, Amazonや楽天やヤフーショッピングなどのプラットフォームには死んでも出したくない人やモノがあると言うことじゃないか?と思うんです。, だから、BASEが流行り、noteが成長し、D2Cがもてはやされるんだと思います。, その下がった価格により廃れた所から、勝手にクリエイターが集まって多様性を生み出して人が戻ると言う現象は世界中の至る所で確認できます。, まるで自然界のようにバクテリアが死体を分解していくように、こう言う現象は起きています。, 何が言いたいか?と言うと、「交換価値」と「体験価値」はそれぞれ行きすぎた資本主義を揺り戻してくれる役割を果たしていると思うんです。, で、その「体験価値」を増幅させる技術革新が今はあるので、好きを追求するビジネスも、資本主義の中で結構な規模のビジネスにまで実現できる可能性があると僕は見ています。, オンラインサロンなんかもそう言う「体験価値」を「交換価値」に変えている場所の一つじゃないかなと思っています。, 一方で資本主義の中では、民主主義的な所と独裁的な所の両面が、過去も今もせめぎ合っている訳です。, 実際に、少数株主の権利をどう守るか?と言う観点と、ガバナンスと言う事についてこれまでもずっと議論がされてきてます。, で、これに対抗するためにGoogleやFacebookが取っているDual-Class Shareと言う、議決権が異なる株式と言うのは、ある種の一つの独裁の方法な訳です。, 僕は、この民主主義のシステムよりも早く資本主義のシステムの方がアップデートされていくと想定しています。, 議決権の異なる株式と言うのは、議決権は1/10とか少ない株式だけど、配当は同じように権利があるよと言う、ある意味所有と経営を分離した株式と言うのはあってもいいと思いますし、プライベートのオーナー企業の方がパフォーマンスが良かったりと言うデータは枚挙にいとまがない訳です。, そもそも、これを取引所が認めている以上、発行体である会社の方針で買うか買わないかを決める権利が投資家にはある訳なので、それはある意味フェアと言う事もできます。, そこで、数年前からピーターティールやマークアンドリーセンがLTSE(The Long-Term Stock Exchange)と言う市場の設立を提唱していました。, なによりも面白いのは、そういう取引市場が誕生するという事がとても面白いです。まさにさっきのBASEじゃないですけど、これもオルタナティブです。, それ以外にも、クラウドファンディングの中でもソーシャルレンディングやブロックチェーンなど、様々な金融技術の進歩と共に発明が生まれ社会に少しずつ実装されている訳なんですが、これらは一人一票と言う、これまでは割り切れなかった権利を、様々な軸で分割していく方法なんだと思うんです。, 一人の重みは同じでも権利行使に重み付けが可能と言う、民主主義の根幹を揺るがす概念ですが、そもそも行政機能そのものも都道府県と市区町村で一部多重化していたり、これから人口が減っていく中で、これまでのインフラコストをそのまま維持できない日本の中で、この議論は極めて重要な要素を含んでいると思います。, これを政治に持ち込むのは、なかなか難易度が高い訳ですけど、資本主義は飽くなき成長のために、次々にイノベーションを取り込んでいきます。, そのイノベーションによって、資本主義そのものがアップデートされていくと予想しています。それは、今に始まった事ではなく、資本主義が誕生してからずっとアップデートし続けて今があるのと同じです。, で、その資本主義のアップデートを追いかけるように民主主義もアップデートされていくんだと考えています。, ただ、この民主主義のアップデートをしていくためにはそのオペレーティングシステム( OS)そのものをアップデートしていく事がとても重要だと考えています。, 現在の教育が、上記のような社会システムそのものがアップデートされていく前提には立っていません。不確実性なんてものは存在してはいけないし、過去と未来は連続性の中で語られ、これまでの方法による努力は報われないとかわいそうじゃないか?というアプローチで設計されます。, これからの時代を切り拓く知のフロンティアになっていかないといけないはずなんですけど、この部分に関しては環境・枠組・人材どれも残念ながら日本は全く良い状況ではないと僕は少し悲観的に見ています。, 過去の経緯や歴史の中を振り返っても、教育、特に公教育のアップデートはものすごく難しいテーマだと思っています。, 等しくサービスを提供すると言う場合において、この均一性を担保しながら健全な競争とエコシステムを構築すると言うのは非常に難しいからです。, 市場原理が効きづらく、かつその原理だけではいけないと言う部分でとても難しいテーマだなと考えていまして、ここは公助だけではなく、共助(シェアリングエコノミー)の仕組で、どうカバーするか?と言うのが、今おぼろげながら僕自身が考えている所になります。, そのために、ちょこまかと実験的な活動をしながら、何か大きくレバレッジできる事はないかな?と合間を縫っては、教育的な活動に個人的に参加してる次第です。, さて、長くなりましたけども、「果たして資本主義と民主主義は両立するのか問題」に対する僕の結論です。, ・そのアップデートは、一人一票と言う権利を様々な切り口で分割する仕組みと技術が組み合わさるものになると想定してる, ・民主主義もアップデートできるはずだけど、それには教育と言う社会のOSのアップデートが必要, 企業の未来戦略において重要になると思われるテーマについて、ハック思考に基づいて私自身の見立てを毎月1~2本くらいのペースでレポートします, 頂いたサポートは、災害地域やいくつかの支援を必要としてる社会的なプロジェクトに寄付させて頂いております。, 日米中のスタートアップの最新動向、ならびに大企業のDX戦略を実際に考え実行する中での学びや企業経営者としての日々の経験からの学習をアウトプットしています, Kaizen PlatformのCEO/リクルート最年少の執行役員(当時) →米国シリコンバレーで起業/企業の売上をインターネットとDXで圧倒的に伸ばす仕事/著書『ハック思考』(NewsPicksBook)・『DX入門』(日経)/皆のハックの引き出しをまとめるノートです. 毛沢東時代. 今後の企業経営の参考にしていただければと思います。. 櫻井翔 松本潤 二宮和也 相葉雅紀 大野智 アラフェス. 自由な資本主義は民主主義と両立しない. 今更ながらの質問で失礼します。 今後の企業経営の参考にしていただければと思います。, 多くの企業に所属しているコンサルタントは基本的に「グローバリズム」と「自由市場」、「自由な資本主義」を疑うことはしません。, また、疑ってみたところでコンサルタントの役割は果たせず「コンサルタントの利益」にはならないでしょう。, つまり、コンサルタントになる過程で経済学を学ぶものですから、その経済学は正しいと信じてしまいますし、経済学という学問そのものを疑うことはしません。, しかし、仕方ないと言ってコンサルタント達が企業の収益を上げ、その裏で多くの一般国民が、犠牲になるというのもおかしな話ですし、また間違っていることだと私は思っています。, 詐欺師も多いですが、大手コンサルティング会社に所属しているコンサルタントは収入も高く、地位も高いし、能力も高い。, その素晴らしい能力を持ったコンサルタント達が、クライアント企業の収益を上げる一方で、国民の格差を広げ、奪い合いを促し、時には間接的に人の命まで奪っていると私は確信しているのです。, この事件では、主にコーポレートガバナンスの問題や粉飾決算など表面的な言わば「経営」に関わることや、経済への影響が語られていますが、一般市民の生活がどうなったのかといった観点がすっぽり抜け落ちてます。, しかし、私のような経営コンサルタント風情が何故こんなことを言うのか不思議に思う方もいるかもしれません。, 産業全体が儲かればそこで働く個人も儲かるということに繋がり、また、社会そのものが現在の過度な競争で限られたパイを奪い合い企業も個人も疲弊して、勝ち組と負け組が分離するという社会よりは, この記事では、企業の変遷とそれがもたらした我が国への影響を考えてみたいと思います。, 1980年代以前の企業のあり方は、高度成長期もあり、企業が儲かれば自然と従業員の賃金も上がっていました。, また、所有と経営の分離という概念は基本的になく、総会屋も活躍していたので経営者は株主からの要求は現在ほど実現されていませんでした。, バブル崩壊と、消費増税と金融ビッグバンなどの規制緩和で一気にデフレに突入した日本は、, デフレにより相対的にカネの価値が上昇したため、「拝金主義」「金銭至上主義」の価値観が広まっていったのです。, といった感情も芽生え、「新自由主義」の自己責任論に傾倒していく土壌になっていたという事実もあります。, 1980年台の中頃からのアメリカは新自由主義のイデオロギーに沿った構造改革を行い、金融市場や労働市場の規制緩和を行い、また、外国人労働者も受け入れたために労働コストも抑えられるようになったのです。, 豊かな環境を享受しているのにも関わらず、その恩恵を忘れ、今いる株主達のみを利する経営しかできないということです。, この時点で企業経営の目的は「株価の最大化」となり、アウトソーシングやオフショアリングを多用し、技術開発投資は短期的には株価が下がるという理由とデフレ経済といった環境も後押して、企業はいわゆるアニマルスピリットを無くしていきました。, 以上で説明した企業の変化に「新自由主義」、「グローバリズム」、「新古典派経済学」、「自由競争」、「規制緩和」「構造改革」「自由貿易」などのイデオロギーががっちりと融合したのです。, 大企業の株主達は外国人投資家で溢れ、現在では株式市場の取引額の7割が外国人投資家です。, これら外国人投資家は自己の利益しか興味ありませんので経営陣にコストカットを要求し、人件費の削減が行われ、失業者が増えていきます。, また技術開発投資も行われないので、技術者も育たなくなり、商品やサービスの質も落ちていきます。, また企業は安い人件費を求め海外に拠点を移したり、経団連を通じて外国移民の受け入れを主張するようになるのです。, この安い人件費を求めて世界中を駆け回る行為を経済学では「底辺への競争」と言われ重大な問題となっています。, 新自由主義者はグローバリズムはこの底辺への競争によって貧しい人々の生活水準がそれまでより向上すると主張するのですが、実際にはしていません。, 仮にしているとしても、それまで中間層として生きていた人間は、下層に落ちていってしまっているという現実は、, しかし、新自由主義者はこの中間層の人間を「自己責任」と断じて切り捨てるのです。これが新自由主義というイデオロギーです。, このような弱肉強食とグローバリズムを前提とした言わば「独裁資本主義」がまかり通れば、, 消費税が上がってもグローバル企業の市場は”世界”ですから日本国民が貧しくなろうが知ったことではありません。, もうお解りかと思いますが、グローバリズムとは企業が国を選べ、企業と国民の利益が一致せず、政府より企業が上位になるのです。, グローバリズムとはヒト・モノ・カネの自由な移動を最大限に認めようという考え方です。, 大手メディアは企業が広告料や出資という形で支配し、現状の我が国で起きている深刻な問題は「報道しない自由」として報道しません。, 報道されなければ国民はそのグローバリズムの問題に気付くことは自ら積極的に情報を求めない限りできないのです。, メディアが流したい情報を流しそれを見た国民は、メディア側の意図する情報を丸飲みに洗脳されていくのです。, ルールがアメリカの政治力で決まってしまうのであれば、日本国民は一体どこの国の国民なんでしょうか?, TPPはラチェット規定で後からルールを元に戻すことはできず政府が産業の規制を強化しようものならISD条項によって訴えられることになるでしょう。, NAFTAや米韓FTAで行われたことがTPPで起こらないとはまったくもって言えません。, TPPが前提の法律になれば日本人の選挙権など何も意味をなさず、日本人は日本の法律を決められないことになるのです。, 仮に変わったとしても、日本政府がISD条項によってTPP参加国の企業に訴えられ、世界銀行参加の国際投資紛争解決センターで、判例に拘束されない恣意的な密室の裁判が行われ、日本政府は賠償金を支払うということの繰り返しとなることでしょう。, 天皇陛下が君臨していようと体裁的に民主主義が保たれようと、実質的に亡国となってしまっては、我が国の先人達に申し訳ないという気持ちになります。, 先日、日英FTAもとい日英EPAに署名されたという報道がありました。 日英が経済連携協定に署名、関税優遇を継続 年明け発効へ[…], 主要農作物種子法廃止を一切報道しないテレビをはじめとするマスコミは存在意義すらない 先日以下の記事を書きました。 日本人の胃袋は日に日に外国に握られて[…], 我が国は三権分立という司法、立法、行政がそれぞれ独立しているということになっています。 しかし実際の三権分立とは「三権複合」といった具合に司法は、政治[…], このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。, このブログは、事実を観て真実を探るコンサルタントが世界情勢を踏まえて政治経済の情報や企業経営についての情報を発信するブログです。 社会主義は必ずしも平等思想でないといけないんでしょうか。王族がトップにいて王が直接政治をして国民は自らの利潤を求めずに王様と国民のために働かなければならない!みたいな, バイデンが大統領になるの日本が終わる。。ってみんないってますがなんでおわるんですか?. 王政と社会主義って両立できますか 社会主義は必ずしも平等思想でないといけないんでしょうか。王族がトップにいて王が直接政治をして国民は自らの利潤を求めずに王様と国民のために働かなければなら … だから、どちらか(グローバリズムか社会民主主義もしくは、大規模なデフレか)を選ばなければならないと思うが、民主党にしても自民党にしても、『票をとらなきゃいけない』から実現不可能などっちつかずの政策を掲げることになる。 事実を観て真実を探るコンサルタントが世界情勢を踏まえて政治経済の情報を発信します。 よく分かりません。日本で例えると、自民党の総裁選挙の 州ごとに勝敗を決める 合計点が270ポイ... トランプとバイデンは日本にとってはどっちが良いですか?世界にとってはどっちが良いですか?, 40代で300万円の貯金ってすごいんですか?先日、同棲してる彼氏が『親が300万円の貯金があるからスポーツカー(WRX)買うらしい』と言ってきました。それも自慢げに。 解釈はご自由にお願い致します。 アメリカ大統領選挙の選挙人の仕組みが ↓ 今後の企業経営や人生の参考にしていただければと思います。 デジタルイラスト講座のデジアートでは、フォトショップとペンタブレットを用いた 名古屋大学 後 房雄 (注) 、これは、『労働運動研究』 (2001. | アベノミクスは角を矯めて牛を殺す政策か », あいにくの雨の日曜日、投票にそれがどう影響するのかは知りませんが、いずれにしても夜には大勢が決します。ちょっと楽しみです。(笑), 話は変わりますが、今日何気なくMXテレビを観ていたら面白いテーマで議論がされていました。新自由主義経済と民主主義は両立するのかというテーマです。興味をそそられたので注目する事にしました。議論している人は荻原博子女史(経済評論家?)以外知りません。, その司会の問いに対し三人が両立すると答え、二人が逆の答えでした。司会は両立する、の方です。結局4対2です。理由を聞いてみると荻原女史は「新自由主義は避けられない方向なので、合わせるしかないじゃないか」と言うのですから心底吃驚しました。(笑)なんで?, 両立すると言った後の二人は、そうあって欲しいという事で、矛盾点がない訳ではないというスタンスです。格差社会はよくないし、自由にも限度があるが、うまい妥協点が見つかればいいという事のようです。修正新自由主義とでも言うのでしょうか?, 両立しない派は二人ともなかなかの論客です。立て板に水で自説を力説します。新古典派経済学をベースにする新自由主義経済自体が既に破綻しているというのが論拠のようです。小さな政府を実践して来たアメリカ自身が壁につき当たっているし、実験的ケースだったEU だって離脱が始まっている訳で、それを今さら日本に持ち込む必要はないと言う訳です。説得力があります。, そもそも、グローバリズムとは切っても切り離せない新自由主義ですが、それを一番進めて来たのがアメリカです。高福祉社会(大きな政府)が前提の日本はどちらかと言うとアメリカの手前、渋々付き合わされて来たというのが正直なところではないでしょうか。, TPPも新自由主義から出て来たブロック経済の考え方です。従ってTPPに賛成する事自体が、=新自由主義者であり、グローバリストなのですが、今の日本、つまり安倍政権は間違いなくそっちの方向に走っています。だからと言って他に任せられる政党がないのが悩ましい訳です。不美人投票をするしかありません。, 私は日頃の言動からもはっきりしているように、新自由主義を忌み嫌う方ですから、それを避けるためなら最悪鎖国だって厭わないと思っています。悪いものが入って来るのなら思い切り高くて頑丈なファイアーウォールを構築すべきです。, それが各種の非関税障壁や規制であり関税なので、それらをなくすTPPはあり得ない選択という事になります。ここで何度も言っているように自由貿易でさえ基本はあり得ません。既に経済発展して、完成の域に達している国が選ぶ選択肢でない事は明らかです。国益という視点でのメリットは殆どありません。, 民主主義とは、一言でいえばその国の国民の利益の最大化の事です。従って何事にも国民の利益が優先されるのが当たり前で、一部の株主や企業、増して政治家の利益が優先される事でないのは自明です。今国が経済を始めとして、うまく機能しなくなっているのは、それが守られていないからに他なりません。, そう考えた時に、今の日本にとって他国の利益を優先しかねないリスクのあるやり方はあり得ない選択という事になります。TPP、FTA、EPA等、よく考えてみると日本より相手方の利益の方が大きいのです。なぜなら、今は資源国以外の殆どの相手国に対して経常収支が黒字だからです。, 貿易や、資本、人の行き来を拡大して相互にメリットを得ようとする(建前的に)のがそれら国際協定や条約ですから、いずれの場合にも失うものが大きく得るものが相対的に少ない日本は不利になります。こんな簡単な事が、頭の良い人達になぜ分からないのか不思議でなりません。, これが、地球市民の利益優先と言う視点なら話は違って来ます。国境をなくし、人種の区別も差別もないなら、地球に住む人達の最大多数の利益が優先される事になり、考え方や立場で差が出るという訳です。国民としての差はありません。つまり日本人は切られる側の少数派になりかねない。。, 要はそのどちらか、日本人を選ぶか地球人を選ぶかになりますが、平和ボケ日本のグローバル化(外国化)には危機感を持っている私は絶対に日本人を選びます。今の時代、それではやっていけないと思うとすれば、それは既に新自由主義のプロパガンダに脳がやられているのです。まず目を醒して、それからじっくり考え直して下さいと言うしかありません。, 地球人の方を選んだ場合は全てが薄く広くという事になり、利に敏い企業の利益が最大化され、格差拡大も進む事は明らかです。一般大衆である地球市民にとって、とても住み難い世界になるであろう事を疑う合理的理由は見当たりません。, 2017年10月22日 (日) 経済・政治・国際 | 固定リンク 2016.10.22; グローバリズム; エンロン事件, グローバリズム, 世界情勢, 市場原理主義, 情報操作, 新古典派経済学, 日本人, 真実, 社会主義, 自由競争, 自由貿易, 資本主義 アメリカ大統領選挙の選挙人の選び方について これに対し、ハイエクは、社会主義と民主主義の両立可能性を理論の上からも、実際上からも不可能と考える。社会主義と民主主義に関してシュンペーターもハイエクも、基本的には同じ定義を与えているので、議論はそれほど複雑でないはずである。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. また、米国のPEファンドと提携しており日本国内の投資案件を承っております。投資案件は主にM&A(企業、不動産問わず)、IPOなどの資金調達。量子力学の技術を導入した商品の販売、サービスを行っています。, 事実を観て真実を探るコンサルタントが世界情勢を踏まえて政治経済の情報を発信します。 ・・・多分両立は無理。諸悪の根源は 金融を支配する輩のせいで金持ち階級・一般庶民との対立とか軍事国家・軍事の備えが脆弱な国家等を比較してみれば両立は成立しないでしょう。 勝った方がその州のポイントゲット! そりゃそうだ。 2016.10.22; グローバリズム; エンロン事件, グローバリズム, 世界情勢, 市場原理主義, 情報操作, 新古典派経済学, 日本人, 真実, 社会主義, 自由競争, 自由貿易, 資本主義 新自由主義経済と民主主義は両立するのかというテーマです。興味をそそられたので注目する事にしました。議論している人は荻原博子女史(経済評論家?)以外知りません。 その司会の問いに対し三人が両立すると答え、二人が逆の答えでした。司会は両立する、の方です。結局4対2 ちなみに、北朝鮮は独裁制の社会主義国家でありながら、「朝鮮民主主義人民共和国」と、国名に「民主主義」が含まれています。「民主主義」� また、経済的平等を重んじる社会主義的な政策をとりながら、民主主義と両立している国家もあります。スウェーデンやノルウェーなどの北欧諸� で、何が面白かったか?と言う事を書いて、タイトルの果たして資本主義と民主主義は両立するのか問題について僕なりの今の結論をご説明していきます。 「父が娘に語る…経済の話」の面白さ. 篠田さんのnoteから引用させて頂きます。 私達は江東区有明を拠点としてサービス業や製造業、飲食業などのコンサルティングをしています。 中国共産党は社会主義はこの経済政策と両立できると主張している。現在の中国共産党の考え方では、中国は開発国に発展できる中国政府の柔軟な経済政策を説明する視点である社会主義の第一段階である。 社会主義の第一段階. 政治にまったく詳しくないので、教えて下さい。 ここ最近、アメリカのドナルド・トランプ大統領が諸外国相手にとる強硬姿勢や、日本国内でも「参院定数6増」「カジノ法案」の強行採決など、物事を数の力で押し切ったり、独善的ともいえる取り決めを行ったりする政治シーンを目にする。先日、アメリカのオバマ前大統領が南アフリカで行った演説でも、民主主義における「強者の政治」に批判の矛先が向けられていた。, 私たちはこうしたニュースを目にしたとき、ふと、「民主主義」というものの「意味」や「意義」について脳裏に浮かべてしまう。この記事では、新刊となる『イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる』を出版したジャーナリスト・池上彰氏に、民意が反映され、より多くの議論を呼んでしかるべきはずの「民主主義」の“そもそも”についてわかりやすく解説してもらった。, 「私たちの国は民主主義国家だ」などとよく聞きますが、その言葉の意味をどう理解していますか。, そもそも「民主主義」とは「国のあり方を決める権利は国民が持っている」と考える政治体制のことです。「資本主義」「社会主義」「共産主義」「民主主義」の区別がよくわからないという声も聞きますが、「資本主義」「社会主義」「共産主義」が経済体制を示す言葉であるのに対し、「民主主義」は政治体制を示す言葉なのです。, 民主主義国家では、国民の政治的な自由、表現の自由、言論の自由を認め、国民が自分たちの代表を選挙で選び、その選ばれた代表者に政治を任せます。そして、代表者が国民のために仕事をしなければ、選挙で引きずり下ろすこともできます。, この民主主義と正反対の関係にあるのが「独裁制」です。独裁制とは、特定の個人または党派などが政治権力を一手に握る仕組みのことで、独裁政治が行われると、国民はつねに支配される側になります。, 世界を見回すと、自由な経済活動を重視する資本主義体制でありながら独裁制をとる国家もあります。たとえば、世界有数の産油国であるサウジアラビアや海外企業を積極的に誘致して発展したシンガポールなどです。また、経済的平等を重んじる社会主義的な政策をとりながら、民主主義と両立している国家もあります。スウェーデンやノルウェーなどの北欧諸国がこれにあたります。, ただし、資本主義で経済活動を自由にしようとすると、国民の考え方も自由にしていく必要が生じるため、資本主義と民主主義には親和性があります。日本も、資本主義と民主主義の体制を両立させている国家の1つなのです。, ちなみに、北朝鮮は独裁制の社会主義国家でありながら、「朝鮮民主主義人民共和国」と、国名に「民主主義」が含まれています。「民主主義」をわざわざ国名に入れている国は、およそ民主的でないというのがお決まりのパターンなのです。, ところで、日本の民主主義を担保しているのが「三権分立」という制度です。日本国憲法では、三権分立を国の基本制度としています。三権とは、法律を作る「立法」と、政策を実行する「行政」、憲法違反を裁く「司法」の三機関。立法、行政、司法がそれぞれ独立し、互いに監視することで、権力の過度の集中を防ぐための仕組みです。, 国会は法律を作る立法府で、国会が作った法律や予算に基づいて政策を実行するのが行政府、つまり内閣総理大臣を長とする内閣です。そして、国会が成立させた法律が憲法に違反していないかを判断し、行政府の行為が憲法に違反していないかをチェックするのが、最高裁判所を頂点とする司法府です。, 以前、安倍総理が国会で「私は立法府の長であります」と答弁し、物議を醸したことがありましたが、総理大臣は「行政府の長」であって「立法府の長」ではありません。単なる言い間違いだとは思いますが……。, 国会は、国民が選挙で選んだ国会議員によって構成され、国民の民意を反映しています。また、最高裁判所の裁判官も、国政選挙のときに国民審査が行われ、裁判官として適切かどうかが国民によって判断されています。, 内閣がきちんと仕事をしていないと国会が判断すれば、内閣不信任案を決議することがあります。これとは逆に、内閣は衆議院を解散して、国民の意思を問うことができます。, また、内閣は最高裁判所の長官を指名し、裁判官を任命する一方で、裁判所は行政の命令や規則、処分などを審査します。そして、国会には弾劾(だんがい)裁判所が設けられ、裁判官を裁判することができる一方で、裁判所には法律が憲法に違反していないかを審査する違憲立法審査権が与えられています。そのため裁判所は「憲法の番人」と呼ばれています。三権は、ジャンケンのグー・チョキ・ パーのような関係を持っているのです。, ただ、憲法第41条には「国権の最高機関は国会である」と定められています。ですから、三者で最も偉いのは国会、ということになります。, イギリスの『エコノミスト』誌関連のシンクタンクは、世界167の国と地域を対象に民主主義ランキングを発表しています。2016年のランキングでは1位がノルウェーで、日本は23位に位置していました。これは、先進国の中では下位にあたります。, その大きな理由の1つは投票率の低さ。最上位の北欧諸国では、投票率が80%程度に達しているのに対し、日本の衆議院選挙の投票率は50%程度と低迷している現状があります。投票率が低いのは民主主義が成熟していないから、と評価されているのです。, もう1つの理由は、女性の国会議員が少ないこと。ヨーロッパでは、女性議員は3割を占め、大統領や首相になる女性リーダーもいます。これに対して日本の国会では、 女性議員はあくまで少数派で、女性の総理大臣もいまだ誕生していません。, また、世界中のジャーナリストが組織するNGO・国境なき記者団が発表する「世界報道自由度ランキング」(2018年)を見ると、日本は67位にランクしています。2010年には11位に位置していたにもかかわらず、以降は低迷しているのです。, その大きな要因とされるのが、2011年の東日本大震災による福島第一原発事故。原発事故についての情報がオープンにならなかったため、海外のメディアから厳しい目が注がれました。さらに、特定秘密保護法の施行、フリーや外国人記者の活動制限などの問題も指摘されています。, ■「民主主義」のまとめ日本は民主主義国家ではあるものの、世界的には民主主義のレベルは「低い」とされています。この状況を変えられるのは、私たち国民一人ひとりです。, <覚えておきたいポイント>●民主主義とは国民が国のあり方を決める政治体制のこと●日本は資本主義と民主主義を両立させている国●日本は民主主義後進国とされている, “知っているようで知らない”「民主主義」という言葉の意味と、日本が置かれた状況についてざっと解説しました。, 日本が民主主義を採用したのは、第2次世界大戦の後のこと。このまま自動的に継続される制度というわけでもありません。国民として、この政治の仕組みをしっかり知っておく必要があるのです。, この記事内のリンクから商品を購入されるとマイクロソフトはアフィリエイト広告収入を得ることがあります, 新しいFacebookアプリで友達とのコミュニケーションを快適に楽しんで頂けます。. つまり選挙人の獲得数の集計... 大統領選 選挙人アメリカ大統領選挙では、大統領選挙人という言葉がありますが、あれは州毎に割り振られたいわばポイントのような物と捉えていいのでしょうか? 地方党員票のようなものが選挙人という どの動画かは忘れてしまったが、西田議員は青木氏の「経済学とは何だろうか」(八千代出版、2012)を取り上げていたはずである。, 「西田ビジョン「西田昌司×青木泰樹経済対談」vol.1 「相反する二つの経済学説を検証する」」 YouTube2012年12月24日, https://www.youtube.com/watch?v=yi2bEWlrehw, 著者について ↓ 選挙「人」というと、あたかも人間のような気がしてしまうのですが、結局 したがって、話は戻ると民主主義が機能していないので世界的にも評価されていないのです。 日本って平和だからですかね。 忙しいからかな、日本人は。 これじゃ民主主義ではなく、ほぼ資本主義ですよね。 結論①まず投票には行こう. トップページ ダンジョンの中でしかできないんでしょうか?, パズドラで、炭治郎テンプレを作りたいんですけど、何をどう組めばいいのか分からないので、誰か組んでいただきです。よろしくお願いします。, パズドラのことについて質問させていただきます。現在開催されている鬼滅コラボキャラは、それぞれ何体ずつ確保すべきでしょうか?, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14232236729. 民主主義と両立する左翼 . 絵の描き方を動画で解説しています。, « 日本企業は凄い資金を溜め込んでいるとは言うが・・ | WRXなんか買ったら破産しませんかね…笑, 嵐大野智がファンよりもシングルマザーを選んだ理由は何ですか? 新自由主義経済と民主主義は両立するのかというテーマです。興味をそそられたので注目する事にしました。議論している人は荻原博子女史(経済評論家?)以外知りません。 その司会の問いに対し三人が両立すると答え、二人が逆の答えでした。 鬼滅の刃コラボの炭治郎を変身させたいんですが元に戻ってしまいます。 ・・・日露戦争勃発前、日本に金を貸したのは、リーマン・ブラザーズ系統であったらしいですが、金貸し屋は決して日本の恩人などではない証拠に借金返済の為に満州辺りに進出せざるをえず、結局大戦争に巻き込まれてしまった様です。あくまで私見です。。。. イタリアと日本における左翼の自己刷新 . 『サルの一種・シロガオサキの「モップ」の観賞に訪れる女性について言及。「『モップくんが大好きなんです!』と来園してくださる方は素敵(すてき)なお... バイデンは中国とズブズブなんですか?SNSでは彼が大統領になったらアメリカも日本も終わると言ってるひとが結構いて不安です。 帝京大学短期大学教授。シュンペーター研究、経済変動論を専門研究。主著に『動態経済分析への道』『近代経済学』など, 青木氏はシュンペーター経済学すなわちシュンペータリアンである(https://ameblo.jp/khensuke/entry-11882302037.html)。, そして、シュンペーターは「(暴力革命無き)社会主義社会への移行」を唱えたとのことである(https://ameblo.jp/khensuke/entry-12004371526.html)。, 古賀勝次郎「ハイエク経済学の周辺」(行人社、1985年)を見ていたら、シュンペーターについての記述があった(古賀氏の経歴につきhttp://www.shunjusha.co.jp/writer/22759/)。, これによると、F・A・ハイエクとシュンペーターは、「社会主義に対する考えにおいて両者は鋭く対立する」。, ハイエクは社会主義を否定し、対してシュンペーターは社会主義を肯定する(シュンペーターの社会主義論はマルクスのそれとは異なるところがあるようだ。記事の長さの都合上引用しなかったが、「(P・M・)スウィージーはアメリカにおける最も著名なマルクス経済学者であって、その意味では、シュンペーターと著しく異なる」とのこと(46ページ)。<追記>「シュンペーターとハイエクはマルクスの労働価値説を拒否している点では一致している」。52ページ注12<追記ここまで>)。, シュンペーターはハイエクの「隷従への道」に「勇気ある著作」と賛辞を贈っているため、両者の関係はわかりにくいところがある。両者の立場は決して近いものではなく、彼らの経済学には隔たりがある。, 西田議員はシュンペータリアンの青木氏の助言など受けていてよいのだろうか。というより、どういう経緯でこの二人は知り合ったのだろう。接点がよくわからない。, 「2 社会主義と民主主義」は一応引用しておいたが、本論との関係では読み飛ばして構わないと思う。, J・A・シュンペーターは、死の直前、「社会主義への前進」(“The March into Socialism”,1950)という題の演説草稿――結局未完のままで終わった――を書いたが、その中に次のようなところがある。ケインズ的政策、公共的統制、社会保障政策など、「これらの事柄のすべて或いは大部分について否認を表明した経済学者の会議がたしかスイスのどこかの山で催されたはずである。しかしこれらのアナテマ(呪詛)は攻撃を呼び起こしさえしなかった(1)」このシュンペーターの文章は、彼とハイエクの経済観の相違を物語っていると同時に、また、当時の世界の経済学の潮流が如何なる方向に向かっていたかをよく表現している。シュンペーターは、その草稿で、資本主義経済の解体が進み、私的企業体制がますます社会主義的計画経済に向かっているかを改めて確認した。しかも、シュンペーターは、そのような見解が、多くの人々、とりわけ経済学者によって当然の事として受け入れられている、とまで言っている。一方、ハイエクも、世界の経済学、あるいは政治的動向が、ケインズ経済学へ、また、社会主義へと向いつつあることを見てとっていた。そのため、ハイエクは、世界の自由主義者達を結集し、スイスのモンペルランで、自由主義復興のための会議を開いたのであった。だが、その会議の影響は、先の文章からも窺えるように、殆ど言うに足るものではなかった。, シュンペーターとハイエクは同じく、ウィーン大学に学んだという共通項をもっている。C・メンガーは、シュンペーターの学生時代には、既にウィーン大学にはいなかったが、G・ハーバラーも指摘するごとく、ウィーンは、今世紀はじめ、経済学研究の一大中心地であった(2)。そこで、シュンペーターは、ベーム=バヴェルクやF・ヴィーザーなど、オーストリア学派の伝統を継承発展させた「大経済学者」に学んだ。また、ハイエクも述べているように、シュンペーターは、ハイエクの師L・ミーゼスの「優秀なるゼミナールの同僚」であった。このように、シュンペーターとハイエクはいくつかの点で、何らかの関係を有していると見られるのであるが、しかし彼らの学問には、最初から大きな隔たりがあったように思われる。ハイエクは、少なくともその経済理論においては、あくまで、オーストリア学派の伝統に従っている。だが、ハーバラーは、シュンペーターの諸著作の中には、「オーストリア学派的」な影響といわれ得るものは、殆ど見出されない、と言っている(4)。また、P・ワイルズは、「彼(シュンペーター)は、オーストリア人だが、きわめてドイツ人的であった(5)」と述べている。ハイエクは、どちらかといえば極めてイギリス人的である。恐らくそういうところから、シュンペーターとハイエクの学問における差異が出てくるのであろうが、その中でも、社会主義に対する考えにおいて両者は鋭く対立する。, シュンペーターとハイエクが、互いに相手の思想を意識していたことは、彼らが、それぞれの主要著作である『隷従への道』(The Road to Serfdom, 1944)、『経済分析の歴史』(History of Economic Analysis,  1954)に書いた書評からも窺える。シュンペーターは、ハイエクの歯に衣着せぬ論述を讃え、『隷従への道』を「勇気ある著作」だといっている(6)。だがハイエクは、シュンペーターがその書評の中で、「著者(ハイエク)は余りにも礼儀正しい」といっているくだりに対して、後年に至るまで、一種の嫌悪感を持ち続けた(7)。多分、そこに感じられるある種の皮肉に、シュンペーターの『隷従への道』に対する理解の曖昧さ、あるいは誤解を、ハイエクは感じていたのだろう。シュンペーターは、その書評の最後に近いところで、次のように述べている。「ハイエクは、『私有財産の廃止と個人的自由の完全な保持の結合』を望んでいる『アカデミズムの学者達』をあまりにも厳しく批判している――恐らくそれが正しいのかもしれないが。……しかし、ハイエクは、彼が理解している以上に、彼らと多くの共通項をもっている。というのは、彼らも、共にJ・S・ミルの政治的社会学……から出発しているからである(8)」。『隷従への道』の中に、誤解を招くような論述のあることは事実だが、このシュンペーターの評は、明らかに誤解による。, ハイエクの書評「シュンペーターの経済学説史」(“Schumpeter on the History of Economics”, 1954)の大部分は、敬意と驚嘆をもって書かれているが、しかしある部分で、シュンペーターの反資本主義的姿勢に反発を示している。ハイエクは、『経済分析の歴史』が広く原典を渉猟した体系的な検討を加えていることを高く評価し、経済学を超えたその「百科全書的知識」(encyclopaedic knowledge)に敬意を表している(9)。そして彼は、この著作を、経済学者ばかりでなく、すべての知識人に、強く推奨するのである。しかしながらハイエクは、ある箇所で、シュンペーターが次のような考えの持ち主であることを思い出すよう読者に促している。即ち、シュンペーターは、「資本主義の発展は、消滅する傾向にある。というのは、現代国家がその原動力を押しつぶす、あるいは、麻痺させるかもしれないからだ(10)」。ハイエクがわざわざこのような文章を挿入したのは、やはりシュンペーターの社会主義に関する議論に対する反発からだといえる。, シュンペーターとハイエクの社会主義の議論で、先ず対立するのは、社会主義の実現可能性に関するものである。ハイエクが『経済分析の歴史』の第四篇第七章五の注(一二)にある以下のようなシュンペーターの文章を見逃すはずはない。「また、決定的に間違っている純粋理論的な反社会主義的な議論(これは、L・ミーゼス、F・ハイエク、およびLロビンズによって発議されたも存する。すなわち、社会主義共同社会の静学を記述する、決定された方程式の一組の解が存在するにしても生産手段における私有財産が存しないときには、これらの解を実現するいかなる機構も存しないという議論がこれである。<そんなことはない>……(11)」。要するに、シュンペーターは社会主義は実現可能であるばかりか、恐らく資本主義以上にうまく機能し得るであろう、というのである。もっともシュンペーターの社会主義の実現可能性の議論は、既に、『社会主義の青写真』(the socialist blueprint)においてより詳しくなされていた。そこで明らかなことは、シュンペーターの議論が、その殆どをV・パレート、E・バローネ、O・ランゲ、H・D・デッキンソンに負っている、ということである。だが実は、それらの人々の理論こそ、いわゆる「計画経済論争」において、ハイエクが批判の対象としたものであった(12)。シュンペーターによれば、「生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局にゆだねられている(13)」社会主義経済は、分析的には、資本主義経済と同じ体系に基づいて操作できる。このような考えは、既にパレートの中に見出され、バローネがそれを完全に体系化した。バローネなどの研究の本質的な結論は、中央計画当局によって、統制されている社会主義においても、一義的に決定される一組の解をもつ方程式体系が存在し、しかも、その解は完全に競争的資本主義におけると同じ意味を持ちうるということであった。また、シュンペーターは、ランゲやデッキンソンなどの計画経済の「競争的解決」(competitive solution)や「試行錯誤」(trial and error)による調整といった考えを受け入れている。但し、その前提として、シュンペーターは、社会主義経済が、巨大な官僚組織――社会主義と官僚制の問題は後でも言及する――の存在を必要とすることを上<ママ>げている。当然、以上のごときシュンペーターの社会主義の青写真はハイエクのそれと真向から対立する。, ハイエクが「計画経済論争」において行なった計画経済批判については、既に別のところで述べたことがあるのでここでは省略するが、その後、約四十年経ってなされた講演「社会主義と科学」(“Socialism and Science”, 1976)の中で、その論争を回想した箇処があり、そこでいくつかの重要な発言をしているので、その点をここで触れておこう。先ず、ミーゼスが、社会主義を「実現不可能」としたことの意味について、ハイエクは次のように述べている(14)。即ち、彼によれば、ミーゼスが言いたかったことは、社会主義実現のために提案されている方法では、期待されている目的を達成し得ない、ということであった、と。更にハイエクは、言葉を続け、われわれは如何なる政策も試みることはできるが、問題は、その政策が主張されているような効果をもたらすか否かということであって、それが「科学的議論」である、と。確かに、計画経済論争におけるミーゼスの議論はハイエクのそれ以上に誤解を与えた。恐らく、シュンペーターもそれを誤解した一人である。しかし、今日、冷静に当時のミーゼスの著作や諸論文を読み返してみると、ハイエクの先の指摘は、実に適切であると思われる。そうであれば、社会主義の可能性に関する当時のミーゼスの議論は、今日でも依然として、多くの検討すべき問題を残しているといえる。, 次に、パレートの議論について、ハイエクは以下のように述べている(15)。パレートが、連立方程式体系で意図したものは、特定の価格を決定するのに用いるためではなく、「一般的パターン」(the general pattern)のみを示すためであった。そのことは、彼自身はっきり認識していた。というのは――これから先はハイエクの考えが些か入り込んでいるようだが――、如何なる中央当局も、個々人の行為――このような行為が市場という伝達機構に与えられる情報である――を導く時間と場所に規定されたすべての知識を知ることができないからだ、と。推測の域を出ないが、シュンペーターにはこのような理解はなかった。更にハイエクは、ランゲ流の社会主義的競争に対して、次のような批判をしている(16)。一、すべての産業設備や他の資本が、「社会」(この場合は政府)によって所有されている限り、中央計画当局が、各企業の持つべき資本量あるいは管理者が負うべきリスク、の決定を競争や市場に委ねることはできないであろう。しかし、二、政府が市場を自由に機能させるべきであるとすれば、市場参加者の得る所得が、政府が社会的に公正だと見做すそれに対応する保障はない。そうであれば、社会主義の最も重要なスローガンである公正な所得の達成ということは、放棄せざるを得なくなるであろう。これは「分配」に関わる問題である。, ところでシュンペーターによれば、社会主義経済においては、生産手段の私的所有、したがって市場価値が存在しないので、分配は、市場原理によらず、社会主義的基準によって行なわれる、具体的にいえば、分配は、政治的に決定される。そこには明らかに、清算と分配とが切り離し得る、という考えがある。しかし、そういう考えをハイエクははっきり拒否している。勿論、シュンペーターがそう考えていたからといって驚くに当らない。ひとたび生産物が与えられれば、その分配は自由である、あるいは自由にできる、という考えは、既にミルにもあったし、その後もしばしば主張されてきたものだからである。これに対しハイエクは、生産と分配が、決して切り離し得ないものと考える(17)。生産そのものが市場メカニズムによって、情報伝達シグナルとしての価格の指示によってなされる。その生産物の分配も市場メカニズムから独立して存在し得ないのであって、市場メカニズムによる分配によって生産も合理的に起こり得る。このことが理解できないのは、ハイエクによれば、生産というものを純技術的に考えているところからきている。シュンペーターが、生産を純技術的に考えていたかどうか定かではないが、彼に技術主義的傾向があったことはどうも本当のように思える。またハイエクは次のようにも述べている。個々人の所得が、政治的に決定されることになると、彼は、一般的利益のために何をすべきかについての決定を下すインセンティブばかりでなく、可能性をも失うであろう。そして更に、もし、個々人が彼のサービスを社会の仲間に価値あらしめるために何をすべきかを知り得ないならば、彼は、要求されたものをするよう命令されなければならなくなるであろう。こうなると既に問題は、「社会主義と自由」ということになる。, 次に、社会主義をめぐるシュンペーターとハイエクの相違を示しているのが、社会主義と民主主義の問題である。両者の相違は、彼らの民主主義についての考えが、基本的に同じであるにもかかわらず起こっている、恐らくそういうところに問題の中心点があると思われる。シュンペーターもハイエクも、民主主義を一つの政治的手段と考えていたが、しかし、社会主義に関する両者の見方は相当に距離があって、それが、社会主義と民主主義の問題において彼らの相違を浮き立たせている、といえる。, H・K・ザッセンハウスも指摘している如く、シュンペーターの民主主義に対する考えは、いろいろ変化している(18)。一九二〇年代初期に書かれた「今日の社会主義の可能性」(“Sozialistische Möglichkeiten von heute”, 1921/2)において彼は、民主主義に対しかなり批判的な態度を示している。例えば、シュンペーターは、その中で「民主主義を拒否することは、彼にとっても非難の種になってはならない。逆に、それは……勇気のある解放的な所業なのである(19)」と言っている。そこには、明らかに、民主主義の実際の能力に対する不信が見られる。しかし、彼は、『資本主義・社会主義・民主主義』第四部「社会主義と民主主義」においては、民主主義を肯定的に扱っている。そこでシュンペーターは、民主主義を次のように定義している。「民主主義は政治的――立法的、行政的――決定に到達するためのある種の制度的装置にほかならないのであって、一定の歴史的諸条件のもとでそれがいかなる決定をもたらすかということと離れては、それ自体で一つの目的たりえないものである(20)」。それは、ハイエクが『隷従への道』で与えた民主主義の定義と符合する。「民主主義は、本質的には、一つの手段であって、国内の平和と個人的自由を保障するための功利主義的装置である(21)」と、ハイエクは言う。, シュンペーターの民主主義の概念に関しては、既に、D・M・ライトが詳しく検討している。ライトは、シュンペーターが、民主主義を「機能的」に概念規定していることについて、次のように語っている(22)。シュンペーターは、民主主義を機能的なものとするが、アメリカ人の民主主義に対する伝統的な考え方は、決して機能的なものではなく、「倫理的」なものであった。「建国の祖父達」にとって民主主義は、究極的には、寛容、正義、同胞愛の支配のことであり、単なる選挙された政府というものは、その目的のための一手段で、しかも彼らはその手段に懐疑的であった、と。だがライトは、シュンペーターがそのようなアメリカ民主主義の伝統に関する詳しい分析を行ったとしても、それで民主主義についての彼の定義を変更したどうかは極めて疑問だ、と述べている。そしてライトは、その理由を、シュンペーターの実証主義的傾向に求めている。勿論、シュンペーターは、「価値」について全く冷淡、無関心だった訳ではなく、彼の価値基準は、西欧キリスト教の伝統を受け継いでいた。しかし、丁度、悪霊が聖なる水を避けるように、科学者は、少なくとも善と美について論ずることを避ける。シュンペーターの学問に対する態度は恐らくそういうものであろう。ライトは、「倫理的」民主主義について語ることの難点が「真の」民主主義を「良き」社会と同一視することにあると述べているが、多分シュンペーターもそう考えていたといってよいであろう。, では、右のごときライトの議論は、シュンペーターと同じく民主主義を一つの手段とするハイエクにも当て嵌まるであろうか。結論を先に言えば、それは「否」である。何故ならハイエクは、実証主義には極めて批判的だからである。ハイエクは、「価値」の表明を決して拒まないが、民主主義には、政治的手段以上のものを認めない。彼は、価値の表明を、民主主義ではなく、「自由主義」(liberalism)においてするのであり、しかも、彼にとって自由主義は、一つの社会理論である。したがって、彼の価値は「消極的」(negative)な概念として規定される。その理由は、自由主義は、彼にとって《Great Society》である近代社会の理論だからである(したがって、ハイエクが最高の価値と見做す自由も「消極的」概念である)。そういう訳で、ハイエクは、自由主義と民主主義を対置させ、それぞれが関わる問題を次のように言明している。即ち、自由主義は、「政府権力の程度」(the extent of government power)を問題とするものであり、これに対し民主主義は、「誰が政府権力を持つのか」(who holds the power)を問題にするものだ、と(23)。ハイエクにとって、さまざまな価値は、政府権力がある限度内に制限されている場合のみ保障されるので、したがって、誰が政府権力を持つかは手段の問題となる。社会主義と民主主義に関して、シュンペーターとハイエクが異なった見解を示すのは、実はそういうことからである。, 社会主義と民主主義についてのシュンペーターの見解は、次の文章の中に端的に表明されている。「われわれの定義による社会主義と、同じくわれわれの定義による民主主義との間には、なんらかの必然的な関係も存在しない。一方は他方なしに存在しうる。と同時に、両者はけっして両立しがたき関係にあるものでもない。適当な社会的環境のもとにおいては、社会主義機構は民主主義的な原理に従って運営することができる(24)」。社会主義と民主主義についてのシュンペーターの定義は既に述べた通りである。即ち社会主義とは、生産手段および生産自体に対する支配が中央当局に委ねられている社会のことであり、民主主義とは、政治的決定に到達するためのある種の制度的装置であった。民主主義についてのシュンペーターの定義をもっと具体的にいえば、「民主主義的方法とは、政治的決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行なうことにより決定力を得るような制度的装置」である。, ここで問題としたいのは、シュンペーターが、社会主義と民主主義の両立可能性を認めている点である。もっとも、それは、「理論」の上のことであり、彼が、そのような可能性の実現性をも確信していたという訳ではない。これに対し、ハイエクは、社会主義と民主主義の両立可能性を理論の上からも、実際上からも不可能と考える。社会主義と民主主義に関してシュンペーターもハイエクも、基本的には同じ定義を与えているので、議論はそれほど複雑でないはずである。, ザッセンハウスは、シュンペーターの社会主義と民主主義の両立可能性に関する彼の結論について次のように述べている(25)。即ち、シュンペーターの結論は、彼が定義しているように、民主主義と社会主義の「文化的不確定性」(cultural indeterminateness)によって特徴づけられていることに気づけば、驚くべきものではない。つまり如何なる情況においても、社会主義、民主主義の双方を成功に導く条件が満たされれば、両者は部分的に重複する、と。先ず民主主義の成功の条件から述べよう。シュンペーターはおよそ五つをその条件として上<ママ>げている(26)。一、政治的人材が十分に高い資質をもっていること。二、有効な政治的決定の範囲があまりに広すぎてはならないということ。三、公共活動の領域に含まれてよいすべての目的のために、しっかりした身分と伝統、強烈な義務観念と団体精神(esprit de corps)と訓練された官僚をもった政府。四、「民主主義的自制」(democratic self-control)――議会の決定事項ばかりでなく、投票者と政治家との間の分業に関しても尊重し合う必要がある。五、異なった意見に対する極めて広い寛容が必要。以上がシュンペーターの上<ママ>げている民主主義を成功に導くための条件であるが、ザッセンハウスも指摘しているごとく、これらの条件はあまりにも「高度かつ極端な基準」のように思える。事実、シュンペーター自身も、これらの諸条件が満たされたのは、資本主義の最盛期においてだけだ、と思っていた。, シュンペーターは、社会主義の文化的不確定性の問題を規定し、社会主義は、政治的、文化的側面において如何なる形態をとるか、そこには必然性はないと考えた。したがってそこには、社会主義と民主主義の両立可能性が残されている訳である。既にⅠにおいて述べたように、シュンペーターは、「純」経済理論的には、社会主義の実現可能性を認めていた。だが、社会主義の文化的不確定性の故に、社会主義が如何なる政治形態をとるかは明瞭でない。実際、シュンペーターは、社会主義と民主主義が両立し得るとはっきり述べている箇処はない。どちらかと言えば、両者の両立可能性に懐疑的なところが多く、例えば、「社会主義と民主主義」の結論部分において、「実際的な必要という点からいえば、社会主義的民主主義は、かつての資本主義的民主主義よりもはるかに見かけ倒しのものになり終わるかもしれない(27)」と述べている。しかし、シュンペーターは、社会主義と民主主義の両立を否定した訳でなく、「適当な社会的環境の下においては」、両者の両立は可能であると説いているのである。では、社会主義と民主主義が両立し得るような適当な社会的環境とは、一体どのようなものが考えられるのか。, 先ず考えられることは、人民の大多数が民主主義のゲームを遵守する意志をもち、しかも、確信をもった社会主義者である場合である。この場合、先に述べたようなシュンペーターの社会主義、民主主義の定義を満たし、双方が両立し得るかもしれない。しかしこの場合でも次のような問題が起こるであろう。即ち、選ばれた政治家の公約が果たしてその通り実現できるか、もしできなかった場合、どうなるか、といった問題である。この問題は、次の場合に結局は関わるので、以下で一緒に論ずることにする。わたしは、シュンペーターのいう「適当な社会的環境の下」とは、つまりは次のようなことになるのではないかと思う。即ち、社会主義と民主主義が両立し得るのは、優秀な官僚の支配する、しかもかなり規模の大きな官僚組織が存在する場合である。既に述べたように、シュンペーターは、純経済理論の上から社会主義の実現可能性を認めたが、しかしその前提として彼は、巨大な官僚組織の存在を考えていた。また彼は、民主主義の成功の一条件として、しかも極めて重要な条件として、優れた官僚の存在を上<ママ>げていた。以上から、わたしは右のごとき議論をしたのである。もし、このわたしの議論が正しければ、シュンペーターの議論は、H・ケルゼンのそれとかなり似通ってくると思われる。, ケルゼンは、シュンペーターが民主主義的方法を「政治的決定に到達するのに、各人が人々の投票を獲得しようとして競争する」ような制度的装置とする考えにはやや批判的であるが(28)、民主主義を「人民による」一つの政治システムであるとすることにおいて、両者は完全に一致していた。また、ケルゼンもシュンペーターも、社会主義社会においてのみ民主主義は実現し得ると説くレーニンなどの主張に批判的であった。更に両者は――先の議論を前提としてだが――、社会主義と民主主義を官僚支配が必ずしも排除するものでないと考える点で一致している。前の二つについては、ハイエクも恐らく同意するであろうが、最後の点は彼は全くこれを拒否する。社会主義は、官僚主義をもたらし、民主主義の否定に至るというのがハイエクの主張である。これに対し、ケルゼンは、その『民主政治の真偽を分かつもの』(Foudations of Democracy, 1995)の中でこのようなハイエクの主張を批判している(29)。批判の要点は、ハイエクの議論は、政治より経済にウェイトを置いたものであり、民主主義によって保障される自由の中で、より本質的なものは、精神的自由であって、経済的自由ではない。したがって、人間の不安を解消させるために行なわれる経済的自由の制限は、精神的自由と抵触しない、というものである。このようなケルゼンの考えは、明らかに「自由主義<原文では傍点>からの民主主義の解放」からきている。だがこのような考えは、別のところで詳しく述べて置いたように(30)――、結局は、官僚主義の肥大化を促し、また、経済の計画に歯止めをかけることができず、ますます経済の集権化を進め、それを容認することになる。それ故、民主主義が、「人民による」政治システムであるということだけが認められれば、それは社会主義とも官僚支配の政治システムとも両立し得る、と考えられる。多分、シュンペーターもこのようなケルゼンの考えを受け入れるであろう。, これに対しハイエクは、社会主義下の民主主義は、必然的に官僚主義を、また、自由社会における「無制約的民主主義」(unlimited democracy)は、官僚主義を通して社会主義を、それぞれ導くと主張する。そして結論として、社会主義と民主主義は両立し得ないと、ハイエクはいう。社会主義の諸目的を達成するためには、経済計画が単一概念をもっていなければならないが、国民の大多数が確信をもった社会主義者であっても、そこにはそれら諸目的に関する相対的重要性についての同意が得られる訳ではない。したがって、民主的に選ばれた政治家が、一応国民の意志と思われるところのものを実現できなかった場合、当然、民主主義に対する不満が起こる。議会は、無能な「饒舌小舎」と見做されるようになる(31)。そのため有効な計画化が行われるようになるには、専門家、即ち官僚に委ねるべきだという考えが現れてくる。しかしそれは、ハイエクによれば、民主主義を放棄する過程の第一歩である。計画化がますます専門的な知識を必要とするようになればなるほど、この過程は進行し、ついには、民主主義の中央当局からの解放が唱えられてこざるを得ず、かくして社会主義下の民主主義は消滅する。国民の大多数が民主主義的方法を信頼し、また確信をもった社会主義者であっても、そうしたことから免れられない。また、ハイエクは、自由社会においても、無制約的民主主義が長い間放置されておれば、それは官僚主義の支配を通して、社会主義を導くという。無制約的民主主義から出てくる無数の要求を調整し満たすには、専門的な知識と包括的な計画化を必要とするからである。, 以上、社会主義をめぐるシュンペーターとハイエクの議論を見てきたが、彼らの議論に難点のあるのも確かだ。例えば、彼らの定義する社会主義は、マルクス主義型の中央計画経済体制であるといってもよいのであるが、しかし、彼らが専ら扱っているのは、民主社会主義的な社会であって、そういうところに彼らの議論の理解し難いところがある。しかしマルクス主義者でない限り、社会主義と民主主義の問題をめぐる主要な問題をめぐる主要な問題点は彼らの議論の中に殆ど出尽くしていると思う。以上二人の議論を比べて見た場合、その理論、ビジョンにおいてハイエクのほうが一貫しており、また、より真実に近いのではなかろうか。シュンペーターの議論の最も大きな欠陥は、自由主義という概念が出てきていないところにあると思われる。多分彼は、自由主義と資本主義をほぼ同じように把捉していたのであろうが、思想史的に見ても、やはり区別すべきではなかろうか。ハイエクと大体同じ立場にあったW・レプケは、資本主義を自由主義の歪んだ形態と理解していた。, ハイエクにとって自由主義は一つの社会理論、より正確にいえば、《Great Society》である近代の社会理論である。近代のごとく極めて複雑な社会においては、人間の無知の領域がますます拡大されるので、「個人的自由」という価値が極めて重要になる。また、社会が複雑であるから計画化が必要になるのではなく、社会が複雑になればなるほど、われわれは市場経済に頼らざるを得なくなるのである。何故ならば、如何なる中央計画当局も、社会に広く分散している無数の知識、またそれと関わる無数の行為を収集、調整することがますます困難になっていくからである。これが彼の社会理論としての自由主義の核心である。シュンペーターが、現代(当時)の資本主義を「足かせをはめられた資本主義」(fettered capitalism)と断定したのは、些か早計ではなかったろうか。そうしたことが、彼の資本主義の将来に対する見通しを悲観的にさせ、「社会主義への前進」に向わせた、といってよいだろう。見通しといえば、ハイエクの民主社会主義に対するそれも外れた。民主社会主義は、「隷従への道」へとわれわれを導かなかった。もっともそれは、ハイエクの予想に反して、自由主義の強力な復活が屢々(しばしば)見られたからである。, ところで、青木氏は三橋貴明と言論活動を共にし、三橋メルマガに月1ペースで連載していた。, 三橋がDVで逮捕されてからは中断されている模様だ(https://goo.gl/HnHv3w)。, 三橋は、「常に経済合理的に活動し、情報を均等に持つ経済人」モデルを用いるグローバリズムを批判したことがあった(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11628387276.html)。, 確かに、(合理的)経済人モデルに対する批判自体はあり得るものであり、昨年のノーベル経済学賞で話題になった行動経済学もそういう意義があるのだろう(https://toyokeizai.net/articles/-/192354)。, しかし、三橋ブログを「行動経済学」で検索しても1件もヒットしない(26日時点)。三橋の経済人モデル批判は行動経済学の文脈ではない。, 三橋ブログを「経済人 情報」で検索したところ、経済人モデル批判は2012年から見られるようであり、当初はこういう主張はしていなかったようだ(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11315552265.html)。三橋と青木氏が2012年当時に会っていたかどうかは判然としないが、西田議員を介して会ったり青木氏の著書を薦められていたりしてもおかしくないとは思う。, 2016年5月9日の三橋本人執筆のメルマガ記事は、青木氏の「経済学者はなぜ嘘をつくのか」(アスペクト、2016年)を取り上げ、経済人モデル批判にも触れている(https://38news.jp/economy/07313)。, (三橋にその自覚があったかどうかは別にして、)三橋の経済人モデル批判の裏側には、情報を集積する中央当局によって経済を適切に運営することは可能だとする社会主義的な発想があったのかもしれない。, 三橋はシュンペータリアンの青木氏と組んで言論活動をし、青木氏の影響を受け、「社会主義への前進」に誘導されていったのだろう。, また、三橋の盟友の中野剛志も社会主義的な主張をしている。中野が持論とする新自由主義批判はマルクス主義的だと言われている(上念司「経済用語 悪魔の辞典 ニュースに惑わされる前に論破しておきたい55の言葉」(イースト・プレス、2015年)69~73ページ。https://ameblo.jp/bj24649/entry-12323716295.htmlにて引用)。私は確認していないが、中野が2008年に出した「国力論 経済ナショナリズムの系譜」(以文社)にも経済人モデル批判が書かれているらしい(https://goo.gl/2JQ8vX。「富国と強兵 地政経済学序説」(東洋経済新報社、2016年)にも経済人モデル批判が書かれている模様。https://www.sankei.com/life/news/170219/lif1702190028-n1.html)。三橋の経済人モデル批判には中野の影響もあるかもしれない。, シュンペータリアンの青木氏といい、ハイエクを新自由主義者として敵視する中野といい(https://ameblo.jp/bj24649/entry-12345761876.html)、反ハイエクであり、社会主義の傾向が見られる。, しかし、彼らの主張はその実ケインズというよりマルクスであり、「似非ケインジアン」と呼ばれることがある(上念「経済用語 悪魔の辞典」20~24ページ。https://ameblo.jp/bj24649/entry-12222494542.htmlにて引用。なお、https://twitter.com/smith796000/status/543925826488905728)。, しかし、ハイエクと比較してみた方が、彼らの社会主義的な色彩がより明瞭に浮き立つのではなかろうか。, 保守論壇の重鎮であり、昨年逝去した故・渡部昇一氏は、ハイエクを「マルクス主義を殺した哲人」と評し(https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-60404-6)、「先生」と呼んで敬意を表した(「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP研究所、2015年)64~67ページ。https://ameblo.jp/bj24649/entry-12291824378.htmlにて引用)。, 渡部氏やハイエクの全てが正しいということもないだろうが、反ハイエクの立場をとることには慎重になった方がよいと思う。何をもって反ハイエクと見るかだが、とりあえずは反新自由主義やシュンペータリアンは避けるのが無難であろう。, 自由主義を貶め、これに絶望を抱かせようとする裏には、「社会主義への前進」の誘引が潜んでいると疑った方がよいと思う。三橋を見ればそう考えるのが妥当ではないか。, 【青木泰樹】シュンペーター「社会主義への前進」【三橋貴明】 | 独立直観 BJ24649のブログ, F・A・ハイエクとシュンペーターは、「社会主義に対する考えにおいて両者は鋭く対立する」。, J・A・シュンペーターは、死の直前、「社会主義への前進」(“The March into Socialism”,1950)という題の演説草稿――結局未完のままで終わった――を書いた, シュンペーターは、その草稿で、資本主義経済の解体が進み、私的企業体制がますます社会主義的計画経済に向かっているかを改めて確認した。, ハイエクは、世界の自由主義者達を結集し、スイスのモンペルランで、自由主義復興のための会議を開いたのであった。, シュンペーターとハイエクはいくつかの点で、何らかの関係を有していると見られるのであるが、しかし彼らの学問には、最初から大きな隔たりがあった, シュンペーターは、ハイエクの歯に衣着せぬ論述を讃え、『隷従への道』を「勇気ある著作」だといっている(6)。だがハイエクは、シュンペーターがその書評の中で、「著者(ハイエク)は余りにも礼儀正しい」といっているくだりに対して、後年に至るまで、一種の嫌悪感を持ち続けた, 要するに、シュンペーターは社会主義は実現可能であるばかりか、恐らく資本主義以上にうまく機能し得るであろう、というのである。, シュンペーターによれば、「生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局にゆだねられている(13)」社会主義経済は、分析的には、資本主義経済と同じ体系に基づいて操作できる。このような考えは、既にパレートの中に見出され、バローネがそれを完全に体系化した。バローネなどの研究の本質的な結論は、中央計画当局によって、統制されている社会主義においても、一義的に決定される一組の解をもつ方程式体系が存在し、しかも、その解は完全に競争的資本主義におけると同じ意味を持ちうるということであった。また、シュンペーターは、ランゲやデッキンソンなどの計画経済の「競争的解決」(competitive solution)や「試行錯誤」(trial and error)による調整といった考えを受け入れている。但し、その前提として、シュンペーターは、社会主義経済が、巨大な官僚組織――社会主義と官僚制の問題は後でも言及する――の存在を必要とすることを上<ママ>げている。, 如何なる中央計画当局も、社会に広く分散している無数の知識、またそれと関わる無数の行為を収集、調整することがますます困難になっていく.

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