巨人軍、読売興業野球部から独立、株式会社読売巨人軍となる: 03.10: セ・リーグ開幕、巨人は平和台で第1戦、松竹に4対0と快勝(パ・リーグは翌11日開幕) 06.28: 藤本英雄が青森市営球場の対西日本戦で、日本プロ野球史上初のパーフェクトゲームを達成: 07.11 東京巨人軍(1935年 - 1946年) 巨人来季からユニホームチェンジ13年ぶりに胸マークに「tokyo」復活文字もV9や藤田元司、長嶋茂雄監督時と同じ花文字にここ数年の鋭角で鋭敏な「giants」… 2015年10月5日 閲覧。 ^ “東京ドームをオレンジ色で埋め尽くせ!「橙魂2014」”. Mar 16, 2016 - プロ野球12球団の球団ロゴマーク、マスコット、シンボルマーク、エンブレム、ペットマーク、球団旗などの変遷です。2018 2015年10月5日 閲覧。 ^ “「橙魂2015」 実施概要が決定”. また、球団、所属選手、OBなどは「巨人軍」という略称を一般的に使用しているが[112][113]、メディア、他球団がこの略称を使う頻度はそれほど多くない[114][115][116]。, 中国語圏(特に野球が流行っている台湾)は、巨人という伝統的漢字名を従って「讀賣巨人隊」を使う。[117][118], ジャイアンツの応援は、それぞれの地域の私設応援団の先導によって行われる。声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。2010年シーズンまで活動していた東京読売巨人軍応援団(東京)は、東京団員1名が、野球観戦チケットの不正転売を行い、試合観戦契約約款や特別応援許可規程に違反していたことがわかり、その責任を取って東京の応援団は自主解散した。新設される読売ジャイアンツ応援団は東京読売巨人軍応援団の伝統とスタイルを引き継いで応援活動を行うとしている。これにより関東圏は読売ジャイアンツ応援団・北海道は東京読売巨人軍応援団北海道・関西圏は読売ジャイアンツ応援団大阪・中国や四国及び九州は読売巨人軍応援団GLOVE(広島・九州)がそれぞれの地域を先導する。, 応援時の格好はロッテを除いた他球団同様、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ(木村拓也など)・選手(特に松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が2009年まで所属していたニューヨーク・ヤンキース(松井の背番号・55が入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くなかったが、2012年以降橙魂と称した特定の試合日にオレンジ色の特別ユニフォームのレプリカを配布しているため、通常のユニフォームやオレンジユニフォームの比率が高まっている。, 2007年よりサービスが開始された公式ファンクラブ。2013年現在で会員数は30万人を突破している。, サービスはポイント制となっており、巨人軍の主催公式戦(一軍は全試合。二軍は東京ドームでの開催試合のみ)に来場し、ファンクラブ加入時に入手できるカードを持参し専用ブースに行くと「来場ポイント」が加算され、その日の試合での巨人軍のチーム・選手の記録等によってポイントが付き、最終的な合計がその日の「ゲームポイント」として加算される。また、オンラインショップ「GIANTS SHOP ONLINE」(#外部リンク参照)や、東京ソラマチ内の「ジャイアンツオフィシャルストア」での商品購入、BS日テレで中継される巨人戦の視聴、他球団主催公式戦としての巨人戦(不定期)への来場等でもポイントを貯めることができる。ポイントを貯めると、達成ポイントごとにオリジナルグッズや観戦チケット等と交換ができ、抽選で東京ドームのスイートルームやエキサイトシート等での巨人戦観戦に招待される。貯めたポイントは、2013年までは交換しても消滅せずに累積で加算され(つみあげ方式)、1シーズンごとにリセットされていたが、2014年からはグッズ等と交換すると、交換分のポイントが消滅し(引き換え方式)、翌シーズンの11月30日まで有効となった。, 会員はプライム・ジュニア(いずれも有料)・エンジョイ(無料)の3種類があるが、会員の種類によって受けられるサービスが異なる[120]。, なお、このファンクラブは、2018年11月より新・ジャイアンツ公式ファンクラブとしてCLUB GIANTSに生まれ変わった。このサービスでは、CLUB GIANTS会員限定のチケット先行販売に参加できるほか、入会記念品のプレゼント、G-Poが貯まりやすいなど様々な特典があるものとなっている[121]。, 2012年から、読売ジャイアンツ・東京ヤクルトスワローズ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で「GSDBプロジェクト」を立ち上げファンクラブ会員に限りヤクルト・DeNA主催の巨人戦で来場ポイント付与の他会員限定イベントの実施や該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。, 80年以上の歴史を持つ日本プロ野球の創世期より、読売ジャイアンツと阪神タイガースの両球団は、球史に残る幾多の名勝負を繰り広げており「永遠のライバル」、また、両者の対決を「伝統の一戦」と呼ばれていた。これに因み、2016年、巨人・高橋由伸、阪神・金本知憲の両新監督を迎え、新体制となったことを契機に、あらためて両球団の戦いを盛り立て、多くのファンに、より一層の夢・感動を与えられるよう、両球団が共通ビジュアル、シリーズロゴの旗のもとに共同で様々な取り組みを実施する[122]という企画。なお、両球団が共同企画を行うのはこれが初めて。, 1955年の公式戦は大洋との3試合で天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ、更にその後にも日米野球・ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあって、それらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。, 1961年9月7日の対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回表の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は三塁コーチスボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走った。これを見た長嶋が土屋を追いかけ三本間で交錯、そこへ長嶋からの送球を受けた捕手藤尾茂が土屋にタッチした。島秀之助球審は一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が長嶋の走塁妨害を主張、審判団協議の結果判定が覆ってホームインが認められることになったため、今度はジャイアンツ側が土屋はラインアウトだったと主張するなど両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、土屋のホームインが認められ試合が再開されたのは23時53分で、結果的に試合終了は翌9月8日の0時11分となり史上初の2日間またぎの試合となった。, 2日間またぎの試合は直近では2018年9月20日の阪神対広島21回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)において試合開始が1時間遅延した上に雨天中断が絡んで試合終了が翌日の0時03分になった事例がある[125]ほか、セ・リーグの大会規定で1990年から2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際は15回フルイニングを戦った結果日を跨いだ事例が数例あった。, 1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫が内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日放送された各局のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野審判を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。, 2015年10月、所属選手の福田聡志が野球賭博をしていることが発覚。その後、同じく所属選手の笠原将生と松本竜也の2人も野球賭博を行っていたこともわかった。11月に日本野球機構(NPB)のコミッショナー・熊崎勝彦は、3選手を失格処分とし、それを受けた球団は3選手との契約を解除(事実上の解雇)。また球団に対しては指導、管理が不十分であったとされ1000万円の制裁金が科せられた。NPBコミッショナーによる野球賭博事件による選手の処分は1969年に西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の投手の八百長に端を発した『黒い霧事件』以来のことである。, また球団は、今回の事件の責任を明確化するため、3選手の解雇のほか、原沢敦専務取締役兼球団代表が引責辞任、桃井恒和会長・久保博社長が取締役報酬の50%返上(無期限)、白石興二郎オーナー・渡邉恒雄特別顧問が取締役報酬の全額返上(2か月)といった独自の処分を決定した。, 3選手以外にも巨人の一部選手間において賭け麻雀や賭けトランプ、高校野球を使ったギャンブルを読売ジャイアンツ球場のロッカールームでしていたことや、賭け麻雀には野球賭博に関与した3人の投手を含むおよそ10人が参加していたこと、賭けトランプは11人の選手が参加し大富豪やポーカーといったトランプゲームに1回1万円を賭けていたこと、守備練習でミスした選手から罰金を徴収していたことなど、球団内で賭け事が日常的に横行していた事実も発表した[126]。現金を賭けることは賭博罪に該当するが、球団は関わった選手の名前は隠したまま厳重注意処分とした[127][128], 2016年3月8日、巨人は緊急会見を開き、新たに高木京介が野球賭博に関わっていた疑いがあることが新たに判明。球団は同日付で高木京を謹慎処分にし、野球賭博を禁じた野球協約に違反したとして、NPBに告発した[129]。4人目が発覚したことにより、一連の野球賭博問題の責任を取る形で、巨人の渡邉恒雄最高顧問、白石興二郎オーナー、桃井恒和球団会長が辞任[130]。3月22日にNPBの調査委員会は高木京を1年間の失格処分とし、球団に500万円の制裁金を課す処分案を発表した[131]。その後、熊崎コミッショナーは調査委員会案と同じ処分を正式に下す[132]。これを受けた読売巨人軍は高木京介に対し即日、事実上の解雇となる「契約解除」を通達[133]。, 2016年4月、上記4選手以外に1名が違法カジノへの出入りがあることが確認された。しかし、日本の法律では闇カジノが違法であるにも関わらず、野球協約内では闇カジノで金銭を賭けても違反とされていないため、名前の公表はされなかった。また、3月に再度賭博調査を行ったところ、賭け麻雀は14名が参加、賭けトランプは23名が参加をしており、前年11月調査時よりも賭博への参加者が増加していた[134]。, 正力松太郎が「巨人軍は常に紳士たれ」という言葉[注 26]を残したように、巨人の選手は社会人、そして人間として模範となることを求められており、テレビ出演や移動の際はスーツとネクタイ着用が義務付けられてきた[注 27][注 28]。 Oct 22, 2018 - プロ野球12球団の球団ロゴマーク、マスコット、シンボルマーク、エンブレム、ペットマーク、球団旗などの変遷です。2018 Oct 22, 2018 - プロ野球12球団の球団ロゴマーク、マスコット、シンボルマーク、エンブレム、ペットマーク、球団旗などの変遷です。2018 top5には漏れたけど印象に残るユニフォームを紹介します。まずは、2006年~2014年までのホーム用&ビジター用を紹介。2006年~2013年のホーム用。ア… (巨人の 王貞治(左) と 長嶋茂雄(右) の 「on砲」 が大人気) そんな中、巨人には1958(昭和33)年に立教大学から 長嶋茂雄 が、1959(昭和34)年には早稲田実業から 王貞治 が入団し、 王 と 長嶋 の、所謂 「on砲」 は、プロ野球の人気を決定付けた。 上原浩治に関しては、宮崎キャンプへ出発する際にスーツ着用ではあったが、百貨店の紙袋に荷物を詰め込んでいた。, 野村克也は自著『巨人軍論』で、上記のような「紳士野球」については肯定的見解を示し、自身が監督を勤める際も茶髪、ピアス、入れ墨他を禁じている。また、堀内恒夫が監督就任後に茶髪やピアスのみを承認した[注 29]時はかなり否定的な意見を発した。野村曰く「強いチームを作るには厳しいルールが必要で、選手は茶髪・ピアス・入れ墨ではなく、プレーでこそ目立つべきだ」と主張している。また、厳しいルールの下で人間性が鍛えられ、それが野球に良い影響を与えるとしている。, 1994年のイチローとパンチを契機に日本人選手の愛称による登録名が流行した際、巨人も多分に漏れず、河野博文の登録名をあだ名の「ゲンチャン」(北京原人に似ているため[139])で申請したが連盟に却下された[140]。セリーグ理事会は、「ゲン」なら受け付けるとしていた[140]が、巨人は応じず、一転して現在では登録名自体を球団として認めない方針をとるようになった[141]、カツノリ(野村克則)やサブロー(大村三郎)も巨人への移籍にあたって登録名を本名に戻している。, 上記のような愛称でない場合は、在日韓国・朝鮮人などの特別永住者に該当する選手が、戸籍上の本名の民族名でなく日本式の通名で登録した例や、縁起担ぎなどのために戸籍はそのまま登録名のみ改名した例がある。, 外国人やそれに類する選手では、ジェレミー・ゴンザレスが、すでに在籍していたルイス・ゴンザレスおよびジェレミー・パウエルと混同しないように「GG」(読みは「ジー・ジー」)となった例や、マイケル中村が登録名を日本ハム時代と同じ「MICHEAL」に変更した例、ギャレット・ジョーンズが、「ジョーンズ」だと登録例が多いことから、よりインパクトを強める形で「ギャレット」となった例などがある。, 「ジャイアンツタイム」という定刻の30分前に選手・スタッフが集合する暗黙のルールが存在する[142]。遅刻魔[143]と評される松井秀喜はほとんどがこの「ジャイアンツタイム」に遅れていたとの指摘もある[144]。, ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが、実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(筆頭株主は正力も一時期出向で在籍していた京成電鉄であった。出資株数としては、東芝、阪神電気鉄道[注 30][注 31]、東京急行電鉄、吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2か月で読売興業に吸収されている。, 1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(当時の有楽町そごう〈現ビックカメラ有楽町店〉や当時の読売新聞東京本社ビル〈現プランタン銀座〉の保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社(中部本社が読売新聞社改め読売新聞東京本社に吸収)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。, 戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。, 例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。, 選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。, 1957年、正力松太郎オーナーが会長を務める日本テレビがカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためのアイディアとして、巨人のユニフォームを変更した。, 最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された[注 32]。, 次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでの巨人のチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。, しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスかミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。, このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(カラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年の東京オリンピックである)。, 1983年に若手選手として成長目覚ましい槙原寛己、駒田徳広、吉村禎章の3人が背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。背番号50の駒田は4月10日に日本プロ野球史上初の初打席満塁本塁打を放つ衝撃的デビューを飾って規定打席未到達の199打席で打率.286・12本塁打を放ち、特に満塁機で10打数7安打と強く、満塁男の異名を取った。背番号54の槙原は初登板で初完封勝利を収め、12勝を挙げる活躍で新人王を受賞した。背番号55の吉村は104打席に留まったが、プロ1号本塁打から3打席連続本塁打を放つなど打率.326・5本塁打の成績を残した。この年に巨人はセ・リーグ優勝を果たし、期待の若手として注目された。吉村は86年から背番号7、槙原は87年から背番号17、駒田は88年から背番号10に変更した。, かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山、旭川、札幌ドームでの2 - 3連戦)、九州シリーズ(平和台、北九州、福岡ドーム、熊本など)、隔年で北陸シリーズ(金沢、富山県営、富山市民(アルペンスタジアム)、福井などでの2 - 3連戦。富山が正力松太郎の出身地であることから継続して開催されてきた)、東北シリーズ(盛岡、仙台、郡山などでの2 - 3連戦)を率先的に実施してきた。また秋田、青森市営なども開催していた。, 東京ドームが開場してからは、同球場での試合(かつ21世紀初頭頃まではほぼナイトゲーム)を中心に編成したため、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止となり、さらに北海道や九州のシリーズも会場を1カ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。, ただ、地方開催をほぼ廃止したことが災いし、ファン離れが深刻になったことから、2005年以降は東北シリーズ・北陸シリーズを復活させるなど、再び地方都市での開催を増やしている。ただし、このうち札幌と福岡に関しては、2005年以後はセ・パ交流戦が組まれ、パ・リーグ側の球団が主催する試合で(ビジターとしてではあるが)遠征することが恒例になったため、巨人主催によるこれらの地域での試合は2010年以後開催されていない。ただし、球団側は廃止ではなく『休止』扱いとしている[注 33]。また、東北シリーズのうち仙台での試合においても、こちらもフランチャイズとする球団が現れたこともあり、同じように交流戦で対処できるために、2008年以降は開催されていない。, 現状では、毎年京セラドーム大阪で1カード(基本2試合)が組まれているほか、毎年ないし隔年で東北シリーズ(宮城球場以外)と北陸シリーズ、九州シリーズ(福岡ドーム以外)が、またそれ以外にも近畿(甲子園以外)・東海(ナゴヤドーム以外)・中国(広島以外)・四国のいずれかで1試合(京セラドーム大阪とのセット)が組まれており、これらで年間8 - 9試合(2016年は7試合)が地方開催として行われている。地方開催の試合数はセ・リーグでは阪神が最も多い(10試合)が、阪神はそのほぼ全てが大阪ドームのため、開催球場ベースでは巨人が最も多い。, 都市対抗野球大会が東京ドームで開催されるため、開催期間中とその前後の2週間は、毎年長期ロードが毎年組まれている。この間、巨人は主催試合を地方球場で行う。特に、同大会が8月下旬から9月初旬の開催(2002年 - 2010年[注 34])であった時には必ず1カードは巨人主催による地方遠征が行われた。例として2007年は、札幌ドームでの主催試合を含め、11試合を東京ドーム以外で行った(8月24日 - 9月6日)。, 都市対抗が7月下旬から8月初旬の開催であった頃も長期遠征があったが、この時はオールスターを間に挟んだり、また自宅から球場へ通うことができる関東圏の他のビジターでの試合も行われることも頻繁にあったため、主催試合はなかった[注 35]。, 関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年にフランチャイズ制度が確立してからはまれで、確立当初、球場難等を理由に西京極、大阪などでいくつかのチームが試合をした程度であった。特に1955年の大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていたことも関係している)。, 巨人もフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻)となる試合がまれにあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は西京極球場でのオープン戦(主に対阪神戦)を除き、ほとんどなかった。しかし、1997年に大阪ドームが竣工し、同年には読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なったため、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームではほぼ毎年開催するようになった。2002年以後は東京ドームで開く都市対抗野球大会の開催時期が8月下旬から9月初めに移動したためによる処置であった。2006年、2007年及び2010年、2013年は4月に、2012年は7月に開催され、現在も都市対抗開催期間中の長期ロード中の7月下旬に組まれている。また、2007年と2013年に関しては、同一リーグである阪神がフランチャイズとする兵庫県下(神戸)でも組まれた。2020年は公式戦では新型コロナウイルスにより中止となったが、日本シリーズ期間中に東京ドームで都市対抗野球大会が行われるため、京セラドームでの開催となった。, なお、対阪神戦は公式戦に限れば大阪・神戸では巨人・阪神のいずれの主催でも開催実績がない。, 後楽園球場時代は夏場を除き日曜日や大型連休中にはデーゲームが開催されていたが、東京ドームが開業した1988年以降は、初期に開幕シリーズや大型連休中などで部分的に開催したことはあるものの、地上波でのテレビ中継による多額の放映権料収入が見込めるためデーゲームで開催されることは無くなり、地方開催も含めてほぼ全ての主催試合がナイトゲームとなった。デーゲームはナイター設備がない札幌円山球場・旭川スタルヒン球場[注 36]での北海道シリーズ(現在は札幌ドーム)と、優勝チーム決定後の消化試合で組まれる程度となっていた[注 37]。, その後は、視聴率の低下で地上波によるテレビ中継が減少したことでナイター開催のメリットが減少したことや、観客の来やすさを配慮して、週末と休日には再びデーゲームでの開催が増加しており、現状では概ね年間20試合程度がデーゲーム開催となっている。なお、東京ドームは屋内球場であるため、夏場でもデーゲームが組まれている。, 巨人軍のナイター開催は長年午後6時に設定されてきたが、2012年7月25日に行われたDeNA戦で試行的に7時開始で行った。これは、この前日まで第83回都市対抗野球大会が開催され、その会場の応援ステージの撤去などの諸作業を行うのと、ファンから「会社帰りでも試合開始から試合が見たい」との意見があったことから、この1試合限定で行った。, 2013年についても、7月から8月の5試合で「630ナイター」と銘打って、6時30分からの試合開始に設定した。これも前日の7月23日まで第84回都市対抗野球大会が行われたための撤収作業と、ファンからの要望によるもの。特に期間中の2試合で生ビールを800円から400円に半額とするサービスも行われる[146]。, 2014年も、7月の5試合で「630ナイター」として継続し、6時30分からの試合開始に設定。これも、第85回都市対抗野球大会の開催準備とファンからの要望に応えたもの。, 基本的に、地上波ではナイターは19:00 - 20:54、デーゲームは15:00 - 17:00(放送日による)での中継である。, 長年、主催ゲームのテレビ中継は読売新聞系列である日本テレビによる独占状態が続き(1959年6月25日の天覧試合・阪神戦だけNHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。2002年から日本テレビによる独占が崩れ、地上波では土曜日のうちナイトゲームの数試合がNHK総合テレビによる中継となった他、他局による中継(テレビ朝日・テレビ東京)も行われるようになった。2004年以降地上波では中継試合が削減されており、テレビ朝日・テレビ東京はともに撤退、日本テレビでもナイター中継に限ると年間数試合程度に留まっている[注 38]。開幕戦や優勝決定試合など特別な事情がある場合を除き、ナイトゲーム中継では中継時間の延長オプション(21:24までの最大30分)[注 39]も廃止された。, 地上波が減少した代わりに、日本テレビ系の日本における衛星放送であるBS日テレにて、延長オプションも含めて放送されている(上記のようにNHKで中継する試合などで放送されないこともある)。, 読売プリントメディア、東海プリントメディア、読売大阪プリントメディア、メディアプレス瀬戸内、プリントメディア西部, 1 中核子会社5社(読売新聞社、よみうりも参照)2 福島県の地方紙3 主要な放送局のみ掲載。4 大阪本社が出資。5 北海道を中心に折り込み広告事業、人材派遣事業を行う会社。6 旧プランタン銀座。マロニエゲート銀座2&3の運営を行っている。マロニエゲート銀座1は三菱地所プロパティマネジメント運営。7 現在の東京ヴェルディ(現在はプロサッカークラブの経営から完全に手を引き現在はヴェルディ同様に1992年のJリーグカップや1993年Jリーグ開幕節から参戦のパナソニックガンバ大阪のブロンズパートナー(スポンサー)として支援している)。8 大阪本社が出資していた会社だが、2009年11月に清算された。9 2010年3月31日解散。業務は読売エージェンシーへ移管。10 作品がテレビ放映される場合は日本テレビと系列局のみにネットされる。, セ・リーグに現存する6球団ではこの時が初で、2000年・2007年の優勝もサヨナラ勝利で決めている。, 同率2位の2球団で、前年は巨人は4位・阪神は最下位で、扱いは巨人は2位・阪神は3位である。とはいえ、この2球団で優勝争いから先に脱落したのは巨人の方である。, 辞任に際してのセレモニーがないことに、阪神の星野仙一監督(当時)がたまたま最終試合は甲子園球場での試合だったために、「せめて花束贈呈をして、花道を飾りたい」と球団に直訴。そして、最後の試合を終えた後、球団史上、前代未聞の相手本拠地での辞任セレモニーが執り行なわれた。星野監督の花束贈呈のあと、原監督は男泣きをし、スピーチをした。そして、阪神ファンに温かく迎えられて無事にセレモニーを終えることが出来た。, それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった。, 2004年と2005年のパ・リーグでシーズン1位の福岡ダイエー(福岡ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チームをその年の優勝チームと定めていたためである。なお巨人以外では2010年の福岡ソフトバンク、2017年の広島、2018年の埼玉西武がいずれもリーグ優勝しながら、それぞれCSで千葉ロッテ、横浜DeNA、福岡ソフトバンクに敗れ日本シリーズ出場を逃している。, これは東京ドームの代替ではなく、震災発生前よりこの日の宇部での試合が決まっていた。, 過去に獲得したFA宣言選手の中で前年のMVPを獲得したのは2006年の小笠原以来だが、小笠原がいた日本ハムはパ・リーグのため、同一リーグのMVPと平成生まれの選手を獲得したのは史上初である。, 長嶋が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが、現在ではそう呼ばれることが通例となった。, もっとも近年では、バラエティ番組などで、監督・コーチを含めて場合により私服でのテレビ出演も行っている。, なお、堀内自身も監督就任後にチームの気分転換を図るため、ひげを蓄えた時期があった。, 1934年に開催された日米野球の阪神甲子園球場の未払使用料(阪神側から見ると未収入金)を出資金に振り替えたもの。, 2013年に照明が設置され現在はナイターの開催が可能となっており、日本ハムは同球場での試合をナイターで開催している。, 日本テレビでは2000年代後半以降、土日のゴールデン・プライムタイムのレギュラー番組が安定した視聴率を保っていることもあり、土日はナイトゲームの場合でも中継を放送することがなく、稀にNHK総合が放送する程度である。, セ・リーグで唯一200イニングを達成したグライシンガーが東京ヤクルト時代の16勝から1つ勝ち星を伸ばして最多勝と最優秀投手を獲得し、内海も14勝を挙げたのが12勝と2つ減らすにとどまったが、高橋尚成が14勝を挙げたのが8勝、木佐貫が12勝だったのが6勝、7勝を挙げた金刃と5勝を挙げた福田が勝利なしと前年52勝だった先発陣の勝利数が26勝と半分に減ってしまった。, 実際のホームラン数は177本にとどまったが、7月9日から最終戦までのホームラン数を144試合で換算すると218本になる計算である。, なお、読売ジャイアンツ以外の例外として、「広島カープ」が「広島東洋カープ」に改称した後もそれまでの呼び方を引き継いで「東洋」ではなく「広島」という略称で一般的に呼ばれている。, 【10月21日】1958年(昭33)“神様”引退表明川上哲治「16番が泥にまみれぬ前に」, 【9月3日】1977年(昭52)王、世界新756号本塁打1球をめぐるそれぞれの物語, 【10月24日】1989年(平1)加藤哲郎、「巨人はロッテより…」って本当に言った?, http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2009npb/giants/KFullNormal20090924074.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/04/kiji/K20120404002973370.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/09/kiji/K20120409003008320.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/23/kiji/K20120423003103500.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/14/kiji/K20120514003247250.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003411610.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/16/kiji/K20120616003482940.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/01/kiji/K20120701003585250.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/24/kiji/K20120824003964880.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/08/kiji/K20120908004075870.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/21/kiji/K20120921004162800.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/22/kiji/K20121022004387880.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/11/03/kiji/K20121103004475170.html, http://mainichi.jp/sports/news/20121026k0000m050015000c.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/05/kiji/K20130505005743360.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/17/kiji/K20130717006239250.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/09/kiji/K20130809006385890.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/07/kiji/K20130907006572720.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/22/kiji/K20130922006668610.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/19/kiji/K20140419008003630.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/18/kiji/K20141018009127510.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/09/kiji/K20150109009600460.html, http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK60380_T10C15A6000000/, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html, http://www.sankei.com/sports/news/150805/spo1508050041-n1.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1518569.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/06/kiji/K20151006011270070.html, https://full-count.jp/2015/10/17/post20395/, http://www.asahi.com/articles/ASHBK62PTHBKUTQP03B.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/18/kiji/K20151018011340180.html, http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20042_Q5A021C1000000/, http://www.hochi.co.jp/giants/20151023-OHT1T50100.html, 巨人・沢村、ロッテ・香月と電撃トレード!「これまで応援していただきありがとうございました」, 巨人、試合終了前に優勝決定!47度目V 原監督3度目連覇はリーグ初 8年ぶり日本一に挑戦, 【【巨人】1953年が“原点回帰”の理由 チームカラーが「黒とオレンジ」になった年だから, 阪神タイガース・読売巨人軍共同プロジェクト「伝統の一戦~THE CLASSIC SERIES~」について, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/10/01/kiji/20171001s00001173296000c.html, http://www.hochi.co.jp/giants/20151109-OHT1T50173.html, http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00318321.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1614226.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20160322/gia16032214210005-n1.html, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/22/kiji/K20160322012262080.html, http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2016/03/22/0008917179.shtml, http://www.nikkansports.com/baseball/news/1628119.html, “消えたプロ野球選手「あれからの人生」 輝きは一瞬だったかもしれない。しかし、確かにあの時、輝いたのだ・・・”, http://gendai.ismedia.jp/articles/-/30732, http://www.1101.com/baseball/1999-05-03.html, http://www.sanspo.com/sokuho/1204sokuho050.html, http://www.jiji.com/jc/d4?p=gia890ogasawara&d=d4_cc, http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140129/bbl1401290719003-n1.htm, https://full-count.jp/2015/07/02/post13496/, http://www.news-postseven.com/archives/20130505_186024.html, http://www.sanspo.com/baseball/news/20140128/gia14012805000000-n1.html, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130524-1132294.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=読売ジャイアンツ&oldid=80349177, チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。, 連続優勝最長記録・連続レギュラーシーズン最高勝率最長記録 9年(日本プロ野球記録), シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む, ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス), ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録), ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ), ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース), ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ), イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録), イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回), イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録), イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録), イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回), イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録), 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回), 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録), 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録), 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回), 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回), ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース), ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ), イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回), ビジター用は、上着が黒、パンツがライトグレー(白色に近い)になり、ビジター用の胸ロゴもホーム用と同書体の「GIANTS」となり、胸ロゴ・胸番号・背番号がグレーに白の縁取りとなり、左袖は「GIANTS」からホーム用と同じ「YOMIURI」に変更。, 2014年、前年度のセ・リーグ優勝を記念して、右袖にチャンピオン・エンブレムが貼り付けられた, 2015年、前年度のセ・リーグ優勝を記念して、右袖にチャンピオン・エンブレムが貼り付けられた。, 2017年、マイナーチェンジ。"1953〜原点回帰〜"をコンセプトに、1953年当時のユニフォームにより近付けたものに変更。ビジター用が4年ぶりにライトグレー地に戻り、帽子つばのオレンジラインを廃止した, 当時のユニフォームとの違いは、右袖に5000勝記念ワッペンが入っていること。また、ヘルメットは通常のものをそのまま使用。, 当時のユニフォームとの違いは、シャドウストライプが入っていることと、右袖にアディダスのロゴマーク(黒色)が入っていること。また、ヘルメットは2009年現在のものをそのまま使用する。, 採用されたデザインは「ジャイアンツ スターズ」で、星と稲妻がちりばめられている。左胸に番号に入り、その下に「GIANTS」ロゴが入る。, デザインとしては、普段使用するホーム用の上半身の部分のベースが白からオレンジ色。脇からわき腹の部分が白。「GIANTS」ロゴおよびロケットラインは、白縁に黒。なお、ズボンは普段のものを使用。, 1940年 - 1944年:戦時中に軍部より英語禁止令が出たため、「G」の部分を漢字の「巨」に変更。えんじ色地に白文字で「巨」, 1950年 - 1959年:2リーグ分裂を機に球団旗を変更。えんじ色地に白文字で中央に「G」、「讀賣」の文字が加わる。「讀 G 賣」, セ・リーグでは2006年からホーム用ユニホームにスポンサーロゴの掲示を認めているが、ジャイアンツでは同年より2014年まではユニホームサプライヤーである, 2016年7月まで12球団で唯一、ヘルメットにスポンサー掲示をしていない球団であった(代わりにチームスローガン「GIANTS PRIDE」が入る)。同年7月26日から、, 2018年5月28日にタックル問題で批判を浴びていた日本大学は読売ジャイアンツとのスポンサー契約を解除したと発表した。, 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたりペットマークとして使用された。, 2011年1月11日からペットマークを「ウイニングジャビット」に変更した。普通のジャビットを強さや格好良さのイメージを盛り込んだスマートなデザインにしたもの。2017年シーズンまで使用された。引き続きマスコットはジャビットのままである。, 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団であり、また生え抜き選手でも、国内他球団への移籍やコーチを歴任していない、巨人一筋の人物がほとんどである。2リーグ制になってからは他球団に在籍経験のない人物しかいない(球団創立時の初代監督:, 他球団にはあるシーズン途中での監督の長期休養や解任・辞任が皆無である(1リーグ制時代の1947年において, パ・リーグで大映が毎日に吸収合併され大映が消滅し大毎となり6球団制となった1958年から近鉄がオリックスに吸収合併されて近鉄が消滅した2004年までの47年間、パ・リーグの当時の6球団全てと日本シリーズで対戦していた(日本一も6球団全てで経験)。巨人が日本シリーズで敗北したことがあるのは西鉄・西武と阪急・オリックス、南海・ソフトバンク、楽天の4球団。西鉄・西武との相性は悪く、対戦成績は3勝7敗と大きく負け越している。2005年に活動を開始した, 最下位になったのは1975年の1回だけでこれは現存する12球団の中では最少であり、最下位が1回しかないのは巨人だけである。また、2016年も最下位を回避したことにより、阪急・オリックスが持っていた39年連続最下位回避(1964年 - 2001年)の最長記録を、40年連続(1976年 - )として最長記録保持球団となった。この記録は2019年に43年連続に伸びている。, 巨人の地方球場での試合は主催ゲームが多く、ビジターでは1972年以降は開催することはなかったが、2004年と2005年に1回ずつ開催されると2010年以降はヤクルト、DeNAの試合でビジターで地方開催する試合が増えてきている。2005年からは, 1949年:日米野球に伴う公式戦一時中断に加え、2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・, 1951年:120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日をもって打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。, 1953年:国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、さらには日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームと. 読売ジャイアンツ(1947年 - ), 1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[2]が、1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった[3]。, 市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[4]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[5]。, 1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[7]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜チームが来日し全日本代表チームと全国で親善試合興行を行った。試合は全日本代表チームの15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[8])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米代表は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で、後に巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。このことから、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県習志野市谷津の谷津公園内に設けられており、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形とサイン付きの石のプレートが並べられている。現役選手が訪れることもある[9]。, 1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定だったが、現地マネジャーのフランク・オドールから「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けることになる。元ジャイアンツであったオドールはトーキョージャイアンツという名前を薦め、結局その名称がつかわれることになった。トーキョージャイアンツは全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手はメジャーリーグのマイナークラスのチーム。最初は物珍しさもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦、これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。, アメリカ遠征からの帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも金鵄勲章から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力はジャイアンツという名前を選んだ。翌1936年にジャイアンツを巨人と訳した東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)に正式改称する。こうして巨人軍は始まったのであった。, 1936年2月5日、日本職業野球連盟が結成され、9日には、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。この直後の2月14日に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。7月5日に大東京戦に勝利して、公式戦球団初勝利[10]。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った[10]。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。なお7月15日に中島治康が対大阪タイガース戦で放った本塁打が球団第1号本塁打である[11]。1936年の秋季大会はリーグ戦とトーナメント戦の混じった6回の小規模な大会の勝ち点制で開催され、5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪に並ばれる。9月25日には沢村栄治が対大阪戦において、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成[10]。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪を下し公式戦初優勝球団に輝いた[12]。, 1937年9月11日には後楽園球場が開場[13]、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対セネタース戦(上井草)に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成[12]。秋季戦は大阪に7戦全敗して9ゲーム差の2位に終わり、初めて優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の2球団で優勝を分け合うことになった。, 1939年より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対南海戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度に渡ってマニラ遠征を行っている[10]。1940年7月31日 から8月23日までの満州リーグ戦では14勝2敗の成績で優勝を遂げる。同年9月13日には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「GIANTS」から「巨」に改められている[10]。11月10日の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。1941年は10月29日の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。1942年は志度商業学校から川畑博が入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。同年の春季リーグ17歳で球団史上最年少の初出場、初登板、初先発、初奪三振、初打席、初安打・二塁打、初打点の記録を樹立、11月1日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。1943年は10月31日の対名古屋戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝[12]。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は10月24日の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。, 1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった[10]。, 戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたスタルヒン(1940年9月に登録名を須田博に変更)、2度のノーヒットノーランを達成した中尾輝三、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第1号であった三原修、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。, 1946年のリーグ戦再開より参加、この年はグレートリングと1ゲーム差の2位に終わる(松竹ロビンス#没収試合第1号も参照)。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり[注 2]、球団名を東京読売巨人軍(とうきょうよみうりきょじんぐん)に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど、再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所昭(巨人時代の登録名は別所毅彦)を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、黒沢の背番号4と、戦死した沢村栄治の背番号14は日本プロ野球界初の永久欠番となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。, 初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。, リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。, リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。, 立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している[14]。, 6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて2人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。 ¨äººè»ã®ä¼çµ±ã‚’継承しつつ挑戦を続ける、, 球団の確固たる意志を示しています。. ã‚¤ãƒ™ãƒ³ãƒˆã€ã‚’開催, ファンの声を記録する留守録装置「ファンメッセージボックス」を開設, SFジャイアンツとコーチ派遣などの覚書交換. 1934(昭和9)年、読売新聞の社長・正力松太郎は、ベーブ・ルースを中心とする全米オールスターチームを招聘し、, 日米野球を開催したが、その全米オールスターチームを迎え撃つべく結成された全日本チームが母体となり、, (1934(昭和9)年に来日したベーブ・ルース(左)と、ベーブ・ルースの招聘に尽力した鈴木惣太郎(右)), (1934(昭和9)年、来日したベーブ・ルース(右)を迎える、読売新聞社社長・正力松太郎(左)), 今回は、巨人の創立記念日に因み、巨人の歴史を、巨人を舞台とした野球漫画やマスコットを中心として、振り返ってみる事としたい。, なお、現在の日本プロ野球は、巨人の創立を以て、これをプロ野球の起源としているので、, (1934(昭和9)年、ベーブ・ルースを中心とする日米野球開催を知らせるポスター), <大日本東京野球倶楽部、1935(昭和10)年のアメリカ遠征で、球団名を東京ジャイアンツ(東京巨人軍)に決定!!>, 1934(昭和9)年の年末に誕生した大日本東京野球倶楽部は、翌1935(昭和10)年、, ベーブ・ルースの来日のために尽力した鈴木惣太郎をマネージャーとして、アメリカに武者修行の遠征に出かけた。, しかし、大日本東京野球倶楽部という名称は、あまりにも長すぎて、アメリカのファンが覚えにくいという事で、, (1935(昭和10)年、アメリカ遠征に出発した、大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)), この時、鈴木惣太郎と共に、ベーブ・ルースの招聘に努めたフランク・オドール(ヤンキースやジャイアンツなどで活躍した名選手)から、, 鈴木は、「ニューヨーク・ヤンキースと、ニューヨーク・ジャイアンツ(※現サンフランシスコ・ジャイアンツ)」と答えたところ、, (1935(昭和10)年、アメリカ遠征の最中に、大日本東京野球倶楽部は東京ジャイアンツ(東京巨人軍)と改称。背番号を漢数字にして、日本らしさをアピールした), 鈴木は、即座にその提案を受け入れ、大日本東京野球倶楽部は、球団名を東京ジャイアンツ(東京巨人軍)とする事に決定した。, なお、全日本チームで、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどの強打者達を手玉に取り、惜しくも0-1で敗れたとはいえ、, 当初は慶応への進学が内定していたが、慶応進学を断念し、誕生したばかりの巨人軍と契約した。, こうして、「スクール・ボーイ」と言われ、大人気を博した沢村栄治を中心とした巨人軍は、, <1936(昭和11)年、プロ野球のリーグ戦がスタート!しかし、戦争激化により苦難の時代を迎える>, 1936(昭和10)年には、巨人に次ぐ2番目の球団として、阪神電鉄が大阪タイガースを結成、, その後、阪神電鉄のライバルの阪急電鉄(小林一三が創立)も球団を結成するなど、日本国内に次々にプロ野球チームが誕生し、, 1936(昭和11)年、巨人、阪神、阪急(現オリックスバファローズ)、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)、名古屋金鯱軍(後に消滅)、東京セネタース, (後に消滅)、大東京(後に松竹ロビンス⇒大洋ホエールズに吸収合併)の7球団で、プロ野球のリーグ戦がスタートした。, (1936(昭和11)年秋、洲崎球場で、優勝決定戦で阪神を破り、プロ野球の初代優勝チームとなった巨人軍), 人気の面では、当時全盛の東京六大学野球には及ばなかったものの、プロ野球はコアなファンを中心に人気を博した。, しかし、当時は日本が戦争に突入して行く、暗い時代であり、遂にプロ野球は1944(昭和19)年を最後に、休止に追い込まれた。, なお、巨人のエースだった沢村栄治をはじめ、数多くの名選手達が戦争で命を落としている。, <戦後、プロ野球人気が大爆発!そしてON(王貞治、長嶋茂雄)の登場で、巨人が黄金時代を築く>, 1945(昭和20)年、長かった戦争が終わり、平和な時代が到来すると、プロ野球は再開されたが、, 娯楽に飢えていた人々が、食うや食わずの時代だったにも関わらず、再開されたプロ野球に熱狂し、, 戦後間もなくの頃は、巨人の「赤バット」の川上哲治と、セネタース(現・北海道日本ハムファイターズ。戦前のセネタースとは無関係)の「青バット」の大下弘が大人気となったが、阪神にも、物干し竿と呼ばれた長いバットを振り回し、「ミスター・タイガース」と呼ばれた藤村富美男が居り、各球団の個性豊かな名選手達が、プロ野球人気を更に盛り上げた。, そんな中、巨人には1958(昭和33)年に立教大学から長嶋茂雄が、1959(昭和34)年には早稲田実業から王貞治が入団し、, こうして、プロ野球は巨人が絶対的王座を築き、球界は巨人を中心に回って行く事となった。, 1965(昭和40)~1973(昭和48)年、川上哲治監督の下、長嶋茂雄と王貞治を中心とした巨人は、, (1965(昭和40)~1973(昭和48)年、川上哲治監督率いる巨人は、空前絶後のV9(9年連続日本一)を達成), 並みいるライバル達と、「大リーグボール」という魔球を駆使しながら戦って行く物語である。, 『巨人の星』はアニメ化もされたが、川上監督や、王や長嶋など、実在の選手達も登場し、, 星飛雄馬と彼らの交流も描かれているが、当時の子供達は、実在の巨人にも、星飛雄馬にも夢中になった。, 『巨人の星』が、巨人人気を更に高める効果が有ったのは間違い無いが、この後も、野球漫画といえば巨人という時代が続いた。, <『侍ジャイアンツ』、『リトル巨人くん』、『童夢くん』…巨人が舞台の野球漫画の隆盛が続く>, 『巨人の星』が終了した後も、主人公の番場蛮が、魔球を駆使してライバル達と戦う『侍ジャイアンツ』や、, 石ノ森章太郎が原作で、1988(昭和63)年に誕生した東京ドームを舞台とした『童夢くん』など、, 架空の主人公が、実在の巨人に入団し、魔球を駆使してエースとして活躍するというパターンの野球漫画が次々に誕生した。, なお、私は小学生の頃、1989(平成元)年にアニメ化された『童夢くん』を、夢中になって見ていた。, このように、野球漫画といえば巨人という時代が長く続いたのは、それだけ、当時の巨人の人気が圧倒的だったという事だろう。, <1992(平成4)年、ジャビットが誕生!!その後、ジャビット・ファミリーが誕生>, 上記の通り、星飛雄馬を筆頭に、数々の野球漫画の主人公達が、その役割を果たして来たとも言えそうである。, それに、1965(昭和40)年には、ミスタージャイアンツという初代ペットマーク(長嶋茂雄の太い眉、王貞治の丸い目、川上哲治監督の出っ腹を現している、1980(昭和55)年には、一般公募で選ばれた、野球のボールを模した二代目ペットマークが有り、, (1965(昭和40)年に誕生した、巨人の初代ペットマーク「ミスタージャイアンツ」), その後、ジャビットには、長男のジャビィ、次男のジャバ、長女のビッキー、三男のツッピーと、その双子の妹のチャピーなど、, 家族が次々に誕生し、東京ドームでは、ジャビットのファミリーが巨人ファンを盛り上げている。, マスコットで振り返るプロ野球史③ 巨人編 ~星飛雄馬からジャビットへ~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~, 法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。, 巨人の歴史を、巨人を舞台とした野球漫画やマスコットを中心として、振り返ってみる事としたい。, 「ニューヨーク・ヤンキースと、ニューヨーク・ジャイアンツ(※現サンフランシスコ・ジャイアンツ)」. 清原和博の著書『反骨心』によると、荷物の持ち方も決まっている。, ヒゲを生やすこと、染髪、長髪も好ましくないとされる。しかし、ヒゲに関しては容認されることも多く、特に第2次長嶋監督時代は屋鋪要、村田真一、入来祐作、杉山直輝、門奈哲寛などのほか、ロイド・モスビー(長嶋就任の前年より所属)、ジェシー・バーフィールド、ヘンリー・コトー、ダン・グラッデン(ヒゲに加え長髪)、シェーン・マック、バルビーノ・ガルベス、ドミンゴ・マルティネスなど多くの選手がヒゲを生やしプレーした。第2次長嶋監督時代以外では仁村薫、日ハム時代ヒゲがトレードマークだった小笠原道大、外国人選手では大洋時代に「ライオン丸」と形容される顎ヒゲがトレードマークのジョン・シピンや、サンフランシスコ・ジャイアンツから移籍してきたMLB通算314本塁打のレジー・スミス、近鉄バファローズから移籍してきたタフィ・ローズのコーンロウとヒゲを例外として認めた(シピンはキャンプ前に短髪にしヒゲを剃り[135][136]、小笠原は入団会見前に男のけじめと語りヒゲを自ら剃った[137][138])。 読売巨人軍 (2014年1月30日). Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. (巨人の 王貞治(左) と 長嶋茂雄(右) の 「on砲」 が大人気) そんな中、巨人には1958(昭和33)年に立教大学から 長嶋茂雄 が、1959(昭和34)年には早稲田実業から 王貞治 が入団し、 王 と 長嶋 の、所謂 「on砲」 は、プロ野球の人気を決定付けた。 2015年10月5日 閲覧。 CSファーストステージではヤクルトと対戦。2連勝で3年ぶり(3位になったシーズンとしては8年ぶり)のファイナルステージ進出を決めたと同時に、第2戦で菅野がCS史上初ノーヒットノーランを達成した。

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