イラン・イラク戦争ではハラブジャ事件は、欧米諸国などの多くがイラク側を支持していたことから、ほぼ非難されませんでした。, 軍事目的に使用されることを知りながらイラクに化学兵器を売却した当時の関係者の責任を問う声があがり、旧政権のために化学兵器を調達したオランダ人ビジネスマン、フランス・ファン・アンラートが逮捕され、禁固刑を受けた。, 第1次大戦中に旧オスマン帝国領の分割について定めた協定によって居住する地域が分断され、現在にいたる「悲劇の民族」だ。, イラクやシリアで過激派組織「イスラム国」(IS)が勢力を拡大する混乱で、クルド人が悲願の独立国家や自治権の拡大に向け前進した。, クルド人自治区の最強治安部隊「ペシュメルガ」は、テロ組織「イスラム国」(IS)と戦い続けている。 今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 ハラブジャ事件(ハラブジャじけん)とは、1988年 3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件 Copyright © 2020 年齢計算・年齢早見表サイト All Rights Reserved. いったい何のことか?, 40代の男が小学校の保護者会から、児童旅行の手配を頼まれた。 本当に毒ガスを使って人を殺した事件となると、「ハラブジャ事件」が思い浮かぶ。 この事件が起きたのは、イラン・イラク戦争がおこなわれていた1988年のとき。 当時のサダム・フセイン政権が毒ガス(化学兵器)を使って、クルド人を大量虐殺した。 なんで児童旅行ごときで4番目の選択まで追い詰められたのか, この事件が起きたのは、イラン・イラク戦争がおこなわれていた1988年のとき。 正直、何が何だかよく分からない。, ・40代でこれかよ それは毒ガスに犯された兵士が、朝から晩まで絞め殺されるような苦しみをしながら、焼けただれだ肺が、少しずつ崩れてゆく有様だ。, 戦争が長引けば、それだけたくさんの人が死ぬことになる。 ハラブジャは、イラク北部コルデスターンにあり、1988年3月16日、イラクのサッダームフセイン軍の化学兵器の攻撃にあいました。イラク軍は48時間でおよそ500発の化学爆弾とロケット、1500発の化学砲弾を、ハラブジャの民間人やクルド人の村に落としました。これらの爆弾や砲弾には危険な有毒ガスが含まれていました。ハラブジャへの化学爆弾による爆撃の影響で、およそ5000人が命を落とし、1万2千人が負傷しました。, アナリストの一部は、ハラブジャの化学爆弾投下の悲劇の深さについて、この戦争犯罪は、大量殺戮、広島の悲劇の繰り返しだとしています。国際法の観点からも、ハラブジャに対する化学爆弾の投下は世界人権宣言と化学兵器禁止条約への明らかな違反となっています。この点から、この措置は戦争犯罪を超えたものであり、人間の一集団を消すための人類に対する犯罪の明らかな例と見なすことができます。, こうした中、ハラブジャの悲劇はなぜ起こったのでしょうか。誰がこの恐ろしい犯罪の背後にいたのでしょうか。イランイラク戦争から10年たって、国連から戦争の開始者として認定されたサッダームフセインだけがこの恐ろしい犯罪を引き起こした唯一の存在なのでしょうか?, 後に公表された文書が示しているように、ドイツ、オランダ、フランス、ベルギー、ロシア、アメリカの207の企業が化学物質や技術をイラクに送っていました。シラクやミッテランといったフランスの著名な人物も、イラクへの化学兵器の売却に関わっていました。これらの国の企業は実際、サッダームの化学兵器による犯罪に加担していました。, 一方で、ハラブジャの犯罪が起こる前に、イラン北西部のサルダシュトにも化学爆弾が投下されました。, 1988年6月24日、サルダシュトの化学爆弾投下で、100人をこえる民間人が命を落とし、8000人が毒ガスで負傷しました。これは、民間人が住む町への化学爆弾の投下という世界で初めての犯罪であり、サッダームフセイン政権は、イランイラク戦争の間、何度となく広範にわたり、化学兵器を使用していました。イラクの化学兵器による最初の攻撃は1981年1月に遡ります。その日から戦争が終わるまで、イラク軍は3500回以上、化学爆弾を投下し、国境に住むイラン人や前線にいた兵士十万人以上を死傷させました。イランはハラブジャの出来事の前に、国連事務総長に複数の書簡を送り、サッダーム政権による化学兵器の大規模な使用について、問題を検討するため、国連の専門家団の派遣を要請しました。しかしながら国際社会の沈黙や西側の国連決議の拒否権行使により、サッダームによって大量破壊兵器の使用は続けられました。, こうした沈黙の結果、障害や難病を持つ子供が生まれました、こうしたダブルスタンダード、矛盾が続く限り、世界は平穏を享受することはなく、ハラブジャやサルダシュトの化学爆弾投下のような恐ろしい犯罪のシーンが人々の記憶から離れることはないでしょう。それは、広島や長崎の原爆は、アメリカによる人類に対する犯罪として決して忘れられることはないのと同様です。このため、こうした悲劇は大量殺戮、人類に対する犯罪、広島の出来事の繰り返しと言われているのです。, 現在もイギリスやカナダ、アメリカといった国々は、劣化ウランなどを含む禁止兵器をサウジアラビアなどの犯罪政権に供与し、それらはイエメンの人々に対して使用されています。こうした犯罪の隠された面やその背後にある要因について語られるのがいつになるのかは、全く分からないのです。. ・津幡から金沢が無理ってどんだけ低予算だったの 2自腹 Copyright © Dialogue for People All Right Reserved. Report ハラブジャ事件(ハラブジャじけん)1988年3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件。イラン・イラ… 毒ガスという新兵器を使うことで、戦争を早く終わらせることができる。 ハラブジャ事件から見た事件. ハラブジャ (クルド語: هەڵەبجە, Helebce)は、イラク北部のクルディスタン地域のハラブジャ県の県都。 首都バグダッドの約240km北東に位置し、イランとの国境まで14km。 国境周辺の ハウラマン (英語版) 地方に含まれる。 北東にハウラマン山脈とShnrwe山脈、南にBalambo山脈、西にSirwan川が有る。 ペシュメルガでは、女性兵士は男性兵士と同じように戦う。 AFPの記事から。, 元国防相は、1988年のクルド人虐殺事件(アンファル作戦)を指揮し18万人のクルド人を殺害したとして、「ジェノサイド」の罪で死刑判決が下されている。, シリアのアサド政権が毒ガス攻撃をおこない、100人もの犠牲者を出す。 ・ばかすぎ クルド人の人口は3000万人でクルド人の約80%は、イスラム教のスンニ派である。(ただしイスラム国との違いは、世俗的であるということ。クルド人は、お酒やアルコールなどを好んで飲んでおり、宗教に縛られ過ぎない民族である), シーア派は、預言者ムハンマドの血縁を重視して、後継者は血を受け継ぐ子孫だとします。, イスラム国は「スンニ派」の一部の過激派で、スンニ派は、イスラム教信者の約85%を占める最大宗派です。 #disaster, Report ・1素直に事情説明 1988年3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件。 #legal reform このときクルド人が住んでいた「ハラブジャ」から、これがハラブジャ事件と呼ばれるようになる。, この事件はまだ終わってはいない。 このことから、「化学兵器の父」とも呼ばれる。, フリッツ・ハーバーが毒ガスをつくり出したのは第一次世界大戦のとき。 #Tohoku ・事実にもとづく歴史認識で韓国と付き合うためのてがかりを提供する。 くわしいことは、ニューズウィーク誌の記事(2017年4月7日)をどうぞ。, シリアで使われた毒ガスは分からないけど、イラクのハラブジャで使われた毒ガスは、ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したときに使った毒ガスととても似ていると指摘されている。, 天才アインシュタインが、「天才」と呼んだ科学者がドイツにいた。 【レポート】 「最も醜いもの」 トルコの軍事作戦をうけて[2019.10.11/安田菜津紀], 【取材レポート】日常を破壊する戦争(シリア北部“ロジャヴァ”/2019.1)[2019.2.28/佐藤慧], 【取材レポート】銃を持つ手は誰のものか-元IS兵の証言-(シリア)[2019.4.27/佐藤慧], 【取材レポート】ラジオ・コバニ、その後(シリア/2019.1)[2019.2.28/安田菜津紀], 【取材レポート】伊藤詩織さんの意見陳述全文 ―私たちはどのような社会を実現したいのか?―. ハラブジャ事件(ハラブジャじけん)とは、1988年3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件[1]。, イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民がイラン側に協力したとして、サッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用し住民の殺害を図ったとされる。, 使用された化学兵器は、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の種類が極めて大量に用いられたとされているが、詳細は不明である。ただ、当時イラクはこれらの化学兵器をまだ所有・開発しておらず、ジャーナリストのケネス・ツィンマーマンによればドイツ人顧問の指導の下で化学兵器工場で生産されたシアン化水素化合物(青酸ガス)を使用したとの見方が有力だという。このガスはナチス・ドイツがユダヤ人に対してガス室で使用した物と酷似しているという[2]。, 元CIA分析官のペレティエ米陸軍大教授(当時)らは1990年の報告書で「イラン・イラク両軍が化学兵器を使った。現実にクルド人を殺したのはイラン軍の爆撃である可能性が高い」と指摘した。彼によると、死者はシアン(青酸)ガス中毒の兆候を示していたが、シアンガスを使っていたのはイラン軍だったという[3] 。なお、これ以前に出されたDIAの報告書と同様に、ここでもイラン軍が事前にシアンガスを使用したとの証拠は一切提示されていない [4]。, 1992年から1994年までヒューマン・ライツ・ウォッチの主任研究者を務めたジョースト・ヒルターマンは、イラク北部での実地調査を含む2年間の虐殺調査を行った。押収された数千のイラクの秘密警察文書と機密指定解除された米国政府文書、ならびに多数のクルド人生存者、イラクからの亡命者、退役した米国情報部員とのインタビューによって、米国政府はイラクがハラブジャへの攻撃を行ったことを十分に認識しており、それにもかかわらず、イランに責任を負わせようとした非難した[5]。, 犠牲者の数に関しては、死者3,200から5,000人、負傷者7,000から10,000人と推測されている[1]。多数の負傷者の存在はイラン・イラク戦争停戦後に取材した外国人ジャーナリストや医師により確認されており、多くの住民が巻き込まれたことは確実とされている。, この事件についてイラク政府からの正式発表はなく、難を逃れた住民が抵抗組織などを通じて世界にアピールし判明したが、イラン・イラク戦争においてスンナ派諸国、欧米諸国などの多くがイラク側を支持していたことから、ほぼ黙殺される状況になった。, ヨーロッパの企業や研究機関が、イラク側に化学兵器の元となる原料を売り、それがクルド人に対して使用されたことが明らかになりつつあるとし、軍事目的に使用されることを知りながらイラクに売却した当時の関係者の責任を問う声があがり、旧政権のために化学兵器を調達したオランダ人ビジネスマン、フランス・ファン・アンラート(Frans Van Anraat)が逮捕され、禁固刑を受けた。, 中川喜与志『クルド人とクルディスタン 拒絶される民族』南方新社:鹿児島、2001年、第1章, Joost R. Hiltermann, A Poisonous Affair: America, Iraq, and the Gassing of Halabja (2007), 1988: Thousands die in Halabja gas attack / 16 March, FMFRP 3-203 – Lessons Learned: Iran-Iraq War, Halabja – America didn't seem to mind poison gas, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ハラブジャ事件&oldid=80059138. このうち、子どもは20人以上いたという。, 現場を撮影した映像には、多くの子供が窒息したり口から泡を吹いたりする様子が写っていた。 イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民が、イラン側に協力したとして、サッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用し、住民の殺害を図ったとされる。 ハラブジャは、イラク北部コルデスターンにあり、1988年3月16日、イラクのサッダームフセイン軍の化学兵器の攻撃にあいました。 イラク軍は48時間でおよそ500発の化学爆弾とロケット、1500発の化学砲弾を、ハラブジャの民間人やクルド人の村に落としました。 ・なんで正直にこの予算じゃ金沢ではむりだから能登方面にしましょうって言えなかったんだよwww ガスを吸った住人たちは激しく咳き込み、痙攣し、泡を吹いて倒れ、街には人間から動物まで、あらゆる遺体が散乱した。当時、化学兵器についての情報はなく、逃げまどい疲れ果てた住人たちが、毒された川の水を飲み亡くなっていった。意識を失った父親を背負い、まだ雪残る山へと逃げ込んだある男性はこう語る。「この世の終わりだ、と思わざるをえなかった。なぜなら目の前にいる最も愛する人を、この手で救えないのだから」。亡くなった住人たちの数は当時の街の人口の1割を超える、約5,000人に及ぶとされている。誰しもが家族を亡くし、「まるで街全体が孤児院のようだった」と彼は語る。, その悲劇を語り継ぐハラブジャ市内の平和博物館には、慰霊碑の並ぶ静かなホールがある。16面になっている壁は3月16日を、19.88メーターの高さは、1988年を象徴する。頭上高くまでびっしりと並ぶ犠牲者の名前は家族ごとに区切られていた。ひときわその数の多さが目立つのが、24人の名が連なるサイード・カカさん(51)の家族だ。サイードさんはこの平和博物館で伝承活動を続けている生存者の一人だ。「あれが母、その次が兄と、その子どもたちです」。一人一人の顔を思い浮かべるように、サイードさんは壁に刻まれた名前を噛みしめながらゆっくりと読み上げていく。, 市内の小高い丘には、当時の犠牲者たちの墓地がある。峠には名前が刻まれた墓石が並ぶが、これは飽くまでも「モニュメント」でしかない。「ここを見てほしい」とサイードさんが示した先には、巨大な棺のような石に、「1,500人の犠牲者」という文字が綴られていた。「ここには誰の遺体か判別ができなかった人間たちがまとめて埋められているんです。きっと母たちもこの中にいるのだと思いますが、それも定かではありません」。唇を噛むサイードさんの浮かべた表情には、それぞれの名があったはずの家族が、数字に置き換えられてしまうことへの悔しさがにじんでいるように思えた。, サイードさん自身は1988年、ハラブジャから西に150キロほど離れたキルクークの大学で機械工学を学んでいた。当時はまだ二十歳、学ぶこと全てが新鮮だった。当時は今のように通信手段が豊かだったわけではない。3月16日から2、3日経った頃、街中に噂が流れ始める。どうやらハラブジャが大変なことになっている、人々はイラン側に逃れているらしい、と。即座に頭を過ったのは、両親や兄弟たち、そして3か月前に結婚したばかりの妻の安否だった。, ところが家族が逃れているであろうイラン側へ渡る許可はおりず、ただ焦りばかりが募っていった。それから4カ月が過ぎた頃、ようやく密輸業者を頼って切り立った山を越えた。しなびたテントがひしめき合う難民キャンプで、最初にいとこの姿を見つける。「父や母は、妻は…?」。まくしたてるようにそう尋ねると、しばしの沈黙の後、「病院にいるんじゃないだろうか」と、いとこはうつむいたまま、小さく呟いたという。彼は到底言えなかったのだ。母親をふくめ、サイードさんの家族の殆どが亡くなったことを。サイードさん自身もまさか、24人の命が奪われたことなど、この時まだ想像すらしていなかった。, 「幸い父や妻は無事でした。それからしばらくは、難民キャンプで暮らすことになりました。土の上に簡易なテントを並べただけで、寒さや暑さはしのぎきれませんでした。水食糧もすべて不足していてね」。時には40センチ近く積もる雪から飲み水を得ることもあったという。ようやくハラブジャに戻ってこれたのは、それから3年後のことだった。 #Yasuda でもイスラム国に捕まったら、、、、、です。. 毒ガスの使用を命じたイラクの元国防相は刑務所で死刑を待っている。 イスラム国は、「支配を受け入れたものは手厚く保護する」と布告を出しているが、それを信じる住民はいない。, イスラ ム国はキリスト教徒を強制追放し、クルド系のヤズディ教徒(ヤジディ教徒)に改宗か死かを迫り、連行した若い女性を戦闘員との強制結婚や奴隷売買の対象と した。, ペシュメルガには女性部隊があることでも知られている。 ハラブジャ事件(ハラブジャじけん)とは、1988年 3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件 #Iraq, Report #Yasuda できるだけ戦争の犠牲者を少なくするには、戦争を早く終わらせなければいけない。, そこで、毒ガスが出てくる。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 彼は2010年に処刑された。 日本人には、ユダヤ人やクルド人のように「国のない民」になった経験がない。 いつでも日本列島に住むことがで … 日本や世界の歴史や文化の知識を深めていきましょう。 イスラム国は同じイスラム教であるがスンニ派VSシーア派でもあります。 ©Copyright2020 ゆかしき世界.All Rights Reserved. 当時のサダム・フセイン政権が毒ガス(化学兵器)を使って、クルド人を大量虐殺した。 4犯罪に手を染める イラクがクルド人の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、5,000人を殺害。(ハラブジャ事件) 3月17日: 東京都文京区の東京ドームで落成式。 3月18日: 名古屋妊婦切り裂き殺人事件が発生。2003年公訴時効成立。 3月18日: 近鉄21000系電車デビュー。 サイードさんの現在の自宅は、閑静な住宅街の一角にあるこじんまりとした二階建ての家だった。小さな中庭の上には、これから実をつけるであろうブドウのつるが青々とした葉を茂らせていた。, リビングには今年で87歳になる父、カカ・シェイフさんが静かにソファーに座っていた。握ったしわしわの手は温かく、私たちを出迎えるその目はしっかりと相手を見据えていた。腰もまがり、体の自由は利かなくなった、と苦笑いしながらも、その言葉は鋭い問いかけばかりだった。「ガスを吸ってすぐに気を失ったので、あの日について語れる記憶がないんだ」。意識を失ってから20日間眠り続け、気が付けばイラン側の病院の上だったという。, 当時の政権寄りの新聞は、アンファール作戦の一部始終を「戦果」として堂々と報じている。化学兵器に関しても、イラク政府は肯定も否定もしなかった。つまり、事実上認めていたのだ。それを欧米諸国が気づいていなかったはずはないだろう。むしろ化学兵器製造への、欧州企業の関与も指摘されている。, けれども親米政権が覆えされたイランの「イスラム革命」を受け、欧米諸国はその革命が周辺国に波及することを恐れていた。だからこそイラクのサダム政権側に肩入れしてその“余波”を食い止め、そして戦後の「復興特需」で得られる利益を狙ったのだ。こうして、虐殺は見過ごされてきた。, カカ・シェイフさんは語る。「アメリカほどの大国だ。その気になれば止めることができたろう。だが、止めたくなかったから繰り返されたのだ。彼らの自国の利益が、我々の人命を上回ったのだよ」。, この日、サイードさんのお宅で、お昼ご飯をご馳走になった。サイードさん自ら腕をふるったという羊の肉が入ったスープと、「皆、ハラブジャで作られたものなんですよ」という、自慢の新鮮な野菜が食卓に並んだ。けれども食事を囲む度、サイードさんは複雑な気持ちを抱くのだという。「今でもふと、食卓を囲むと思い出すことがあるんです。我々はあれほど大きな家族で、皆食事を共にしていたのに、なぜ彼らはここにいないのだろうか、と」。, ハラブジャではいまだ後遺症に苦しむ人々もいれば、「ハラブジャ出身」というだけで結婚差別に遭う女性たちもいるという。理不尽に多くの市民の命が奪われ、その後もこうして苦しみが続いたという意味では、広島、長崎の原爆被害に重なるところがある。1932年生まれのカカ・シェイフさんは、1945年に広島、長崎に原爆が投下されたニュースに触れたことをおぼろげながらに覚えているという。実はハラブジャ市内には、「広島通り」と呼ばれる道がある。, 「ハラブジャから広島への祈りを伝えよう」と、3年ほど前から人々がそう名付けたのだそうだ。毎年のように8月、日本に向けた祈りの集いを開いている。

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