© 2018 Kodansha Ltd. All rights reserved. 16年前、近鉄最後の年に1軍でプレーした選手のその後! 現役選手、1人になる可能性…!消えゆく近鉄バファローズ戦士たち. 現役選手. 星野リゾートの公式アカウントです。星野リゾートでは、自然や文化、食など、その地域の魅力に触れる様々な体験をご用意しております。すべてのお客様に「ここに来てよかった」と感じていただきたいという気持... TATRAS&STRADA ESTはビジネスもホリデーも同じく楽しむ大人にファッションを通じて新しい喜びを発見して頂ける様に目指しているセレクトショップです。“Hi Quality”“S... 広告代理店勤務。基本的に好奇心旺盛。筋トレや美容、ヘアスタイルなどメンズビューティーに凝っています。, 旅行と食べること、ファッションが好き。インドア派でアウトドア派のフリーライターです。生まれは四国、大学で東京へ行き就職で大阪へ。転々とする放浪癖を生かして様々な地域の記事を書いています。, 都内在住。コーヒーとサンドイッチが大好きで1日1カフェ生活を送っている。夏の定番はレモネード、冬の定番はホットチョコレート。オシャレやヘルシーという言葉に敏感なミーハー系女子。, 信州で車とバイクと旅を愛する道楽者。曲者が集まるCLUB Autistaに所属し、ひと時を執筆に捧げる。, 都内在住の大学生です。ファッションが好きです。特にデニムが好きなので、毎日履いて洗濯してを繰り返し、自分だけの一本を制作中・・・. 2004年の球界再編問題のきっかけとなり、オリックスに吸収合併された大阪近鉄バファローズ。1958年から続く12球団の中で、唯一日本シリーズ優勝がないまま、歴史の幕を下ろしました。史上唯一の100敗を記録する一方で、幾多の球史に残る名シーンを生んだ球団でもあります。(本文中、敬称は略しました), 近鉄は1950年のセ・パ両リーグ分立時にパ・リーグに加盟しました。当時のチーム名はパールズ。親会社の近鉄が走る伊勢志摩の特産品である真珠から名付けられました。初年度から4年連続の最下位、54年に初のシーズン勝ち越しと4位(当時は8球団)に躍進するものの再度低迷し、6球団になった58年は現在まで続く最低勝率.238で最下位に転落します。球団はチーム再建の切り札として、現役時代は読売ジャイアンツの名セカンドとしてならし、引退後も巨人のコーチや助監督まで務めた千葉茂を監督に招聘します。この時にチーム名を千葉の現役時代のニックネーム・「猛牛」からバファロー(62年からバファローズ)に改称すると同時に、70年の大阪万博のシンボルである「太陽の塔」の作者・岡本太郎に球団旗のデザインを依頼するなど、三顧の礼をもって迎え入れました。しかし、千葉はチーム躍進どころか、さらに落とし込む役割を演じることになるのです。, 球団の要請に応えた千葉は情熱を持って、チーム再建に取り組みます。しかし、常勝・巨人しか知らない千葉にとって、シーズン勝ち越しが1度あるだけのチーム状況は想像を絶するものでした。熱意に燃える千葉は、使ってはならない言葉を選手に向かって言い放ちます。「巨人ならこんなことはしない」「巨人はこうだった」と、ことあるごとに巨人と比較する言葉をぶつけたのでした。選手はおもしろい訳がありません。「そんなに巨人がよければ戻ればいい」「東京に帰れ」と猛反発し、千葉の指示も命令も聞かなくなりました。相手チームのエースが登板すると、仮病を使って欠場する選手が現れるに及んでは、もはやチームの態をなしません。監督就任1、2年目を最下位で終わると、3年目の61年はついに超えてはならない一線、100敗を記録しました。この年の最終成績は36勝103敗1分。千葉は解任に追い込まれました。, 近鉄の低迷は続きます。1963年に54年以来のシーズン勝ち越しをしますが4位に留まり、その他の年はAクラス(3位以上)入りはなし。弱すぎて調整にならないと、オープン戦を断られることさえありました。そんなチームを変革させたのが、これまでに何度もご紹介した三原脩です。三原は初年度の68年こそ4位に留まったものの、翌69年にはエース・鈴木啓示の活躍もあり、初の2位に躍進させます。さらにこの年のオフに、夏の甲子園大会決勝で27回を一人で投げ抜いた三沢高の太田幸司をドラフトで獲得し、俄然注目を集めることになります。70年まで指揮を執った三原はチームを初の2年連続Aクラスに導き、退任します。再び最下位に沈んだ73年(この年からパ・リーグは2シーズン制を導入)のオフに近鉄の監督に就任したのは、阪急ブレーブスの監督を務めて5回のリーグ優勝に導き、闘将と呼ばれた西本幸雄です。西本の監督就任から6年目の1974年、前期を1位で終えた近鉄は、プレーオフで後期優勝の阪急を降し、チーム創設30年目についにリーグ優勝を果たすのです。, 長く近鉄のエースとして君臨した鈴木啓示。後年、近鉄の監督も務めた。通算勝利数317勝は金田正一、米田哲也、小山正明に次ぐ歴代4位で、最後の300勝投手と呼ばれる。被本塁打数560は歴代最多。, 日本シリーズの相手は広島東洋カープ。どちらが優勝しても初の日本一でした。当時、本拠地の藤井寺球場はナイター設備がなかったため、南海ホークス(現福岡ソフトバンク)のホームグラウンドである大阪球場が使用されました。第6戦まで本拠地開催のチームが勝利する「内弁慶シリーズ」と揶揄されたシリーズ第7戦は大阪球場で行われ、近鉄有利と思われたものの、3-4の1点ビハインドで9回ウラ近鉄の攻撃を迎えます。この9回ウラのシーンこそ、後に「江夏の21球」と称される球史に残る名場面となりました。近鉄は広島の守護神・江夏を無死満塁と攻め立てますが、スクイズ失敗もあり、最後に勝利の女神が微笑んだのは広島でした。この無死満塁のシーンで、二塁走者として出場していたのが、先日、俳優・福山雅治と結婚した吹石一恵の父・一徳です。近鉄は翌80年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズで再び広島と相見えることになります。先に3勝を挙げて日本一に王手をかけますが、連敗して日本シリーズ優勝の夢を果たすことはできませんでした。西本は辞任を申し出ますが、球団の慰留に翻意、翌年も監督を務めたものの2年連続優勝の立役者で打線の要でもあったマニエルが退団し、チーム力の低下を補うことができずに最下位に転落。西本は退団し、この年を最後にどのチームのユニフォームにも袖を通すことはありませんでした。西本は大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、阪急、近鉄の3球団で監督を務め、全ての球団を優勝に導きます。西本の他に3球団でリーグ優勝を果たしたのは、三原と星野仙一の2人しかいません。しかし、通算20年に及ぶ監督歴で8度のリーグ優勝を飾りながら、日本シリーズでは勝ち運に恵まれず、日本一を果たすことができませんでした。, 近鉄監督時代の西本幸雄。阪急、近鉄の監督を歴任し、弱小球団を常勝チームに作り上げる手腕は高く評価された。傑出した指導力と情熱から闘将と称される。, 1979年の日本シリーズ第7戦。無死満塁と広島の守護神・江夏を攻め立てるが、あと一歩届かず、日本一を逃す。1980年に「Sports Graphic Number」の創刊号に山際淳司によって「江夏の21球」と題されたドキュメントが掲載され、後にNHKでも同名のドキュメント番組が制作された。, その後の近鉄は1989、2001年と2回のリーグ優勝を飾ります。特に、89年は西武ライオンズ(現埼玉西武)と熾烈な優勝争いを展開、西武にマジック3が点灯する中で迎えた10月12日のダブルヘッダー第1試合、一時は4点のビハインドを背負いながらブライアントの3打席連続本塁打で逆転勝利し、続く第2試合もブライアントの本塁打で勝ち越すと打線が爆発、近鉄にマジック2が点灯するという劇的なものでした。日本シリーズは巨人に3連勝、ここでも王手をかけながら4連敗して日本一を果たせませんでした。2004年、球団の赤字経営に悩む近鉄は、同じパ・リーグで関西圏に本拠地を持つオリックス・ブルーウェーブに吸収合併を持ちかけます。この合併話が明るみに出ると、5球団ではリーグ運営が困難として1リーグ10球団構想が浮上、球界再編問題にまで発展します。オーナー会議と選手会は対立し、選手会は史上初のストライキを断行し、2リーグ12球団維持を求めます。最終的には選手会側の主張を世論も支持し、楽天の新規参入によって鎮静化しました。その蔭で2リーグ分立時からの歴史を持ち、「猛牛打線」「いてまえ打線」などの愛称で親しまれ、300勝投手の鈴木啓示、日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂英雄などのスターを輩出した大阪近鉄バファローズは静かにその歴史の幕を閉じたのです。バファローズのチーム名と本拠地・大阪ドームはオリックスに引き継がれました。また、パ・リーグに3球団存在した関西圏の球団も、オリックスを残すのみとなりました。, ラルフ・ブライアント。外国人選手枠の関係で中日ではファームだったが、近鉄にトレードされると豪快な打撃で3度の本塁打王に輝く。一方で1993年に204三振を記録するなど、シーズン三振記録でもトップ4を独占。, 近鉄バファローズ時代の野茂英雄。トルネード投法と呼ばれる独特の投球フォームは、メジャー移籍後もアメリカの野球ファンの間でも話題に。, 大阪近鉄バファローズ時代の梨田昌孝監督。北海道日本ハムファイターズの監督を経て、2016年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任する。楽天で優勝すれば、三原・西本・星野に続く4人目の3球団優勝監督に。, フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。, フリーライター。 近鉄バファローズ(1999年からは大阪近鉄バファローズ)がオリックス・ブルーウェーブとの合併で姿を消して16年、巨人の岩隈久志が引退、さらに11月2日にはヤクルトの近藤一樹が戦力外通告。来季、現役選手はヤクルトの坂口智隆1人になってしまう可能性が出てきた。 歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。. BBスタジアムの対オリックス戦が、共に合併する球団同士の公式戦最終戦となったが、2対7で敗れている[48]。チームは61勝70敗で4年ぶりのBクラスとなる5位で終え、消滅後の2007年から始まったクライマックスシリーズを含む13球団で唯一同年以降の現行のプレーオフシーズンに参戦せずに消滅した。岩隈は15勝を挙げ最多勝を獲得するなど計算できた投手陣に比べ、打撃陣はローズが抜けたことや吉岡などの故障もあり、前年より本塁打、得点が激減となっている。二軍は前期優勝で、9月30日、藤井寺球場で最後の二軍公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われたが、後期優勝の中日に敗れている。, 11月8日、オリックスと新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之がFAで福岡ソフトバンクホークスに移籍。中村紀洋がメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースにポスティングシステムで移籍している。, 以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、球団合併反対運動では選手も署名活動に参加するなど[41]、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。そして、11月30日をもってプロ野球チームとしての大阪近鉄バファローズは55年の歴史に幕を降ろした[49]。, 2005年、1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所を閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズは解散となる。同年6月20日付で清算を終え、会社は完全消滅した。なお、この後近鉄は合併後の暫定処置として球団合併後2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、2007年のシーズン終了と同時に完全撤退した[39]。その後も「近鉄沿線デー」と銘打って、優待企画を実施するなどしている。, 2020年現在、大阪近鉄バファローズに所属経験のあるNPB所属の現役日本人選手は、岩隈久志・近藤一樹・坂口智隆の3人。このうち近藤と坂口は過去に1シーズン以上(岩隈も一旦ではあるが)オリックス・バファローズに所属していた。, 近鉄在籍経験がある現役選手は岩隈久志、近藤一樹、坂口智隆の3名である。 Copyright © JUKKI Co., Ltd. All rights reserved. 2004年の球界再編問題のきっかけとなり、オリックスに吸収合併された大阪近鉄バファローズ。1958年から続く12球団の中で、唯一日本シリーズ優勝がないまま、歴史の幕を下ろしました。史上唯一の100敗を記録する一方で、幾多の球史に残る名シーンを生んだ球団でもあります。 【プロ野球の歴史】大阪近鉄バファローズ ~史上唯一の100敗球団、悲願の日本一ならず~. 1: 名無しさん 2018/12/12(水)22:09:06 id:n5n 大阪近鉄バファローズに所属経験のあるnpb所属の現役日本人選手は、岩隈久志、近藤一樹、坂口智隆の3人。 日本のプロ野球選手一覧; オリックス・バファローズの選手一覧 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。, ※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。, なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。, なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。, また、近鉄として最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような言葉が残されている。, 1967年8月、近鉄は、これまでの1・2軍とは別に、若手育成の観点から将来3軍を結成することを念頭においた新人オーディション(入団テスト)を実施した。まず面接・書類審査に98人が応募。その中から24人に絞り、実技による2次審査を4日間にわたり藤井寺球場で実施。3軍のチーム化を念頭に、十数名程度の獲得を目指そうとした。, しかし、実際に実技テストを合格したのは4人のみで、3軍を結成するとした目標には遠く及ばず、その4名のうち3人は投手で野手は1名だけだった。しかも彼らは全員結果を出せず、2人は2年、もう1人は3年で引退。残り1名についても1972年に南海へ移籍したため、3軍制構想は失敗に終わった[55]。, 2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。, ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)[注 27]、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に中村長芳がオーナーだった。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融のアコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由のひとつに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。, 2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇が広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では、, と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。, また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している[56]。, 2004年12月1日にオリックス・バファローズに吸収合併され球団消滅。合併先の各年についてはTemplate:各年のオリックス・バファローズを参照。, この時点での成績は、近鉄が72勝48敗6分(勝率.600)、阪急が73勝49敗4分(勝率.598)で、近鉄は2勝で優勝となるのに対し、阪急は2勝1分以上が条件だった(当時の新聞縮刷版による)。, 第1試合全打点をたたき出す3打席連続本塁打と、第2試合敬遠四球を挟んでの4打数連続, NPBの球団で本拠地が「市」ではなかったケースは、阪神タイガース(当時の名称は「大阪タイガース」)が1951年3月31日までは, これはデザインを担当したコシノが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため。, 1999年の最終戦で試合の終盤にトランペットを使用するなど、いくつかの例外もある。, 『写真で見る日本プロ野球の歴史 パ・リーグ編―1950ー2014 プロ野球80周年企画 完全保存 (B・B MOOK 1087)』(, http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201001210396.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大阪近鉄バファローズ&oldid=80291458, Aクラス 22回(1954年、1969年 - 1972年、1975年、1978年 - 1980年、1982年、1985年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1997年、2001年 - 2003年), Bクラス 33回(1950年 - 1953年、1955年 - 1968年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年、1981年、1983年 - 1984年、1987年、1993年、1995年 - 1996年、1998年 - 2000年、2004年), シーズン最低勝率 .238(1958年、当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230), 1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス), 1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急), 形式上は藤井寺、大阪球場(1957年まで)→日生(1958年以後)のダブルフランチャイズだったが(, リーグ優勝する年は、必ずと言って良いほど助っ人外国人選手が本塁打を量産する傾向がある。実際に、球団設立から消滅までの55年でリーグ優勝は4回あるが、この間に, 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。, 選手(特に、外国人選手)の複数年契約は、原則、球団側に認められていなかった。このことが原因で、, 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は黒の帽子・アンダーシャツ・縦じま・袖ラインが採用され、赤い「Buffalo」の胸マークが入ったデザインに変更された。ビジター用は背番号の書体を変更。帽子の前面には、金糸で猛牛マークが入った。, 帽子・ヘルメットは、紺色地に赤の「B」マーク(デザイン自体は1966年より使用しているものと同じで, 1999~2004年 - 2013年(ホーム)、2015年(ビジター紺)、2019年(ビジター赤), いずれもビジター用の胸ロゴが「Osaka」に変更後のもの。1999~2004年モデルには、当時永久欠番とされた「背番号1」は本来存在しなかったが、2013年は, 1949:「近鉄パールス」時代のもの。紺地にパール=真珠を模した白丸をちりばめる。左上には、真珠貝を模した白丸の上に「KP」の組文字。, 1959 - 1981:球団ニックネームがバファローとなり、岡本太郎デザインの猛牛マークが登場。水色地に赤で猛牛マーク、両目は紺。, 1982 - 1996:ユニフォームのカラーリングにあわせて、球団旗も赤・紺・白のトリコロールカラーとなる。赤地に白の猛牛マーク(両目の色が白であるものと紺であるものの2種類存在した)、その下に紺地に白文字で「Buffaloes」。, 1997 - 2004:本拠地の大阪ドーム移転を機に、球団旗もリニューアル。紺と赤を波型で分け、中央に白の猛牛マーク、左上には赤文字で「Buffaloes」。, 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した, 合併球団「オリックス・バファローズ」発足後、2010年シーズンまで球団マスコットはオリックス球団のネッピー・リプシーが続投されたが、2011年1月ユニフォームとともにマスコットが一新され「牛のマスコット」が6年ぶりに復活。のちに公募で男の子が「, 打者に対する基本的な応援コールは「かっとばせー、○○(選手名)!××(対戦相手チーム)倒せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代までは近鉄のみならず大半のチームで採り入れられていたが、1990年代以降は年々少なくなっていき、遂には近鉄でしか使われなくなった。一方で、近鉄は球団解散時までこのスタイルを通した(ちなみに、現在この応援コールを使っているのは, 応援歌を流す前のコールは98年の途中までが「〜〜○○(驚弾炸裂紀洋、俊敏華麗に武藤など)」×3を1回もしくは2回のあと「○○!(○○!)○○!(○○!)○○(○○!)」から選手別応援歌、98年の途中からは「〜〜○○」×3からすぐに応援歌の演奏に変更した。, ドリーム&パワー(作詞・作曲:岡田誠司、歌:イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN), 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選, 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている. 2020年現在、近鉄に在籍経験のあるnpbの現役選手を記す。 岩隈久志(現・読売ジャイアンツ) 近藤一樹(現・東京ヤクルトスワローズ) 坂口智隆(現・東京ヤクルトスワローズ) 関連項目. 近鉄パールス(1949年 - 1958年)近鉄バファロー(1959年 - 1961年)近鉄バファローズ(1962年 - 1998年)大阪近鉄バファローズ(1999年 - 2004年)オリックス・ブルーウェーブとの吸収合併により球団消滅, 大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、英語: Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本のプロ野球球団で、パシフィック・リーグに加盟していた。, 一軍は大阪府を保護地域とし、大阪市西区にある大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)を、二軍(ウエスタン・リーグ所属)はかつて一軍の本拠地だった藤井寺球場を本拠地にしていた。, 球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。ただし、三原脩の監督時代のサインなど、球団及び近鉄グループ関係者が誤用した例がある。, 1999年3月末までの球団名は「近鉄バファローズ」で、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。, 2004年、球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。, オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ[注 1]以来の出来事となる。, 1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリング[注 2]との球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。, 球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中では、4回出場した日本シリーズで優勝していない唯一の球団であった[注 3]。, 設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」[1]とも揶揄(やゆ)された。, 1949年、近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社[2])が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。「パール(真珠)」は近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなことから命名された。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である[3]。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現:近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる[4]。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かったため、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明(東急フライヤーズ)、森下重好、田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。, 開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し2対6で敗戦[5]。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した[3]。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる[3](その2選手も翌年には退団)[5]。, この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。, 8月に13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に30勝78敗、3割に満たない勝率[6]で3年連続最下位に終わる[7]。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 小玉明利、鈴木武ら後に中心となる新人補強に加え[3]、独特の練習スタイルで結果を出す[3]。, 開幕直後には9連勝するなど、5月8日に一時期ながら首位に立つ[3]が、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える[3]。, 8月7日に新人の山下登が対高橋ユニオンズ戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成している。74勝63敗5分で、創立以来初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄が最多勝、鈴木武が盗塁王を獲得しており[8]、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった[9]。, 序盤から投手陣が大不振[10]。6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる[3]。, 4月後半の10連勝で勢いをつけたが[3]、終盤に失速し5位[3]。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった[10]。, この年パ・リーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだ」と述べている[8]。6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている[注 4]。加藤春雄はオフに監督就任[11]。, 開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久の33勝を下回り[12]、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える[3]。シーズン終了後、加藤が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。, 5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった[13]。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。, 日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった[14]。新人の徳久利明が15勝を挙げ[注 5]球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し[注 6][15]、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている[9]。シーズン終了後、千葉茂が監督を辞任し、別当薫が就任。, 後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる[16]。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている[17]。, 「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。, チーム名を近鉄バファローズに改名。ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を、28勝を挙げた久保征弘が最多勝を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。, 5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差[注 7]の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。, この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト[15]。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。球団結成時から在籍している関根潤三に対して球団の中には「監督をやれ」と言う人もいたが、関根にそのつもりはなく、近鉄を退団し巨人に移籍した[18]。, 優勝した南海と42.5ゲーム差で2年連続の最下位。この年第1回プロ野球ドラフト会議が行われ、2位指名で鈴木啓示が入団している。, 48勝82敗で3年連続最下位。シーズン終了後、岩本義行が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利が選手を兼任のまま監督就任。, 4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社(2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管[19]。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり4年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。, 西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。, 5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった[注 8]。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。, 5月14日に黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆、吉沢岳男、高木喬の4名に八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まったが、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任を鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭が監督に昇格した[22]。, 鈴木啓示、清俊彦、佐々木宏一郎、神部年男の投手4本柱が防御率7位以内に入る安定感を見せ、3位を確保。, 序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが[23]、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている[24]。, パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが[25]、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井が唯一打率ベスト10入り(3位)しただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し島田光二が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている[26]。二軍がウエスタン・リーグを初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄が監督就任。, 西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり[注 9]、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った[27]。, 監督に就任した西本は羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介、平野光泰、梨田昌崇ら若手選手を鍛えてチーム力の強化を図ったが1年目は5位に終わり、オフにチームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。, 初めて「優勝」(ペナント2期制度での後期優勝)を果たすが、プレーオフで前期優勝の阪急に1勝3敗で敗れる。, 4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が球団初の通算200勝を達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。南海と日本ハムファイターズに勝ち越し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝以上あげているが、首位の阪急に6勝18敗2分と大きく負け越し前期は3位としたものの、後期は最下位でシーズン通しては4位に終わる。チーム盗塁数120はリーグトップだったが、チーム打率は5位、チーム本塁打92本はリーグ最下位に終わっている[26]。, 前期は阪急に次いで2位、後期は8月まで阪急が首位を独走していたものの、9月に近鉄が猛追し一時は首位に立つなど両チームのマッチレースとなり、後期最終戦となる9月23日に阪急との後期優勝をかけた直接対決を迎えた。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。近鉄はこの年25勝で最多勝の鈴木啓示を先発に立てたが、山田久志とのエース対決に敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決め、近鉄は2位に終わっている。この年近鉄は全球団に勝ち越したものの、阪急は近鉄以外の4球団に大きく勝ち越していたのが差となった[26]。, 前期は5月までに2位阪急に5ゲーム差をつけ独走していたが、6月9日の対ロッテ戦でチャーリー・マニエルがアゴに死球を受け、戦線離脱、阪急の追い上げもあり、一時は阪急にマジックが点灯するが、最終戦の対南海戦に引き分け前期優勝を決めた[28]。後期は2位となり、後期優勝の阪急とのプレーオフとなるが、この年防御率1位の山口哲治の3連投の活躍で3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を遂げる。74勝45敗11分、勝率.622は球団記録。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、無死満塁の一打逆転サヨナラの好機をつかむが、江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退(江夏の21球参照)。, 反発力を高めた飛ぶボールの効果もあり、この年本塁打・打点の二冠のマニエルをはじめチームから二桁本塁打10人を出す日本プロ野球新記録のシーズンチーム本塁打239本[注 10]し、前年5月19日から9月29日まで日本プロ野球記録を更新する215試合連続で得点を記録する[29]。チームは前期2位、後期は残り3節の時点で5位と追い込まれるがそこから巻き返し、10月7日には後楽園球場で、マジック1で引き分けでも優勝決定という日本ハムとの直接対決を6-5で勝利し、続く8日、11日の対西武ライオンズ2連戦にも勝利し逆転で後期優勝、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝0敗で制し2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたしても広島に3勝4敗で敗退。オフにマニエルが契約更改で球団と決裂し退団。, 1980年10月7日に行われた後楽園球場における日本ハムと近鉄の後期最終戦。この試合は開始30分前に満員札止めとなった。日本ハムはこの試合で引き分けでも後期優勝が決まるが、近鉄が優勝するにはこの試合に勝ち、対西武戦も連勝する必要があるという日本ハムに非常に有利な試合であった。両チームの先発投手は近鉄は鈴木啓示、日本ハムは高橋一三のベテラン左腕。2回裏に日本ハムが1点を先取。打たれながらも何とか抑えていた高橋が3回表に無死二塁とすると、早くも木田勇がリリーフした。しかし佐々木恭介に打たれて同点とされる。4回表には3本の安打を連ねられて3点を失った。木田はカーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。5回裏に日本ハムが1点を返せば、近鉄もクリス・アーノルドがソロ本塁打を放つ。しかし7回裏に日本ハムは代打、富田勝の二塁打を皮切りに4連打を浴びせて2点を返し、1点差にまで迫る。8回表に有田修三がソロ本塁打を放った後に木田はマウンドに座り込んでしまい、ついに降板した。その裏に日本ハムも一死三塁から富田が近鉄2人目の投手の井本隆の頭をワンバウンドで越えるゴロを放ち、これを遊撃手の吹石徳一がギリギリ追い付いて捕球。三塁走者の大宮龍男はこの場面で生還することができなかった。二死から高代延博の安打でようやく生還して1点差に迫った。日本ハムは9回表の近鉄の攻撃を間柴茂有と宇田東植のリレーで凌いだ。9回裏の日本ハムはクリーンナップの好打順。一番手の柏原純一の右翼への痛烈なライナーがフェンス一杯で捕球された。近鉄はこの後に3番手の村田辰美に替えた。トミー・クルーズも右翼正面へのライナーで二死。トニー・ソレイタは三振に終わり、5-6と近鉄の勝利で試合終了。自力優勝の機を逸した日本ハムを尻目に、近鉄は西武にも連勝して逆転優勝を果たした。監督の西本は「あそこまで鍛えに鍛えて、全員が全力を尽くして戦えば、お客さんの期待に応える、あれだけのゲームが出来るのです」とのちに振り返り、当日に新聞紙記者の一人は「かつてプロ野球は巨人一辺倒だったが、時代は変わった」と書いた[30]。, マニエルの抜けた穴はあまりにも大きく、前年4人いた3割打者が1人も出ず、本塁打もビクター・ハリスの22本がチーム最高であるなど打線が低下[31]。また鈴木啓示も5勝しかできず負け越すなど投手陣が振るわず前期6位、後期4位の最下位に終わる。シーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、後任に関口清治が就任。, 序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。, 4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督が辞任、後任は岡本伊三美。, このシーズンでは、藤井寺球場のナイター設備が完成し、4月6日にナイター開きが行われた。5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。, 7月10日に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、二桁勝利投手もストッパーの石本貴昭だけであったが、この時期は1979年、1980年の優勝メンバーと、後の1989年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎、投手では石本の他に小野和義、吉井理人、佐々木修、山崎慎太郎などの獲得や台頭が見られる[32]。, 後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点灯と消滅を繰り返す展開となる。9月終了時で西武と1ゲーム差の2位だが、残り試合の関係でマジック10が点灯していた。10月5日のロッテ戦で9回裏に2点差を追い付き、引き分けで同率首位に並ぶと、翌日はロッテに勝って単独首位に立つ。両チーム残り3試合の時点でマジック3としたが、10月8日から阪急に3連敗。ロッテにホームで連勝し逆転優勝を果たした西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している[33]。, 新井宏昌が首位打者、ルーキー阿波野秀幸が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり[32]5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越したこともあり[34]、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。, 終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げることとなった。開幕から西武が独走、6月に入ると貯金20で2位近鉄は8ゲームをつけられ、7日には主砲のリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され解雇というアクシデントに見舞われ、同月28日に急遽中日ドラゴンズから金銭トレードでラルフ・ブライアントを獲得した。ブライアントはこの後、74試合の出場ながら34本塁打を記録するなど大活躍をした。9月に入っても西武が独走状態は続き、15日の時点では西武に6ゲーム差をつけられるが西武が一時後退して29日の時点では1.5ゲーム差、10月に入り5日にはゲーム差無しで一時近鉄が首位に立つなど、以降シーズン終了まで、首位の西武と近鉄がともに譲らずハイペースで勝ち続けるという展開となり、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合のうち3勝すれば優勝だったが、17日の対阪急戦に敗れ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となり、川崎球場へ移動しての18日の対ロッテ戦に勝利し、10月19日のロッテとのダブルヘッダーでは第1試合を9回に逆転勝利するが、第2試合延長10回時間切れで4対4の引き分け[注 11]に終わり、130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19を参照)[注 12]。, 開幕前は西武と近鉄が優勝争いになると見られたが、ペナントに入ると開幕戦で近鉄に大勝したオリックスブレーブスが開幕から8連勝と抜け出し、近鉄や西武は勝率5割前後と出遅れる。近鉄はエースの阿波野秀幸が開幕から6連勝や、いてまえ打線の復調もあり、7月から8月にかけて2度の4連勝などで8月に一時首位に立つが、9月に入ると連敗を重ねて9月25日の時点で3位に後退していた。近鉄に後がない状況で迎えた10月12日、対西武戦(西武球場)ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日4打数連続本塁打[注 13]が出て西武に連勝。近鉄がマジック2を点灯させる(詳細は10.19#翌年の10.12を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦に勝利し、129試合目で9年ぶり3度目の優勝達成となった[36]。初めての本拠地球場での日本シリーズ開催となったが[注 14]、初戦から巨人に3連勝するものの、加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言問題もあり[注 15]その後4連敗を喫し、巨人に敗れる。ドラフトにおいて、8球団競合[注 16]による抽選の上、新日鉄堺の野茂英雄の交渉権を獲得し入団している。, 野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得する活躍で新人王&MVPとなり、沢村賞も獲得。また同じく新人の石井浩郎も6月以降にレギュラーに定着し規定打席不足ながら打率.300、22本塁打と活躍。しかしチームは開幕2戦目から9連敗を喫し大きく出遅れ、阿波野の不振や小野の故障など野茂以外の投手陣が軒並み成績を落としたこともあり、西武との大差を縮められず3位に終わる。, 西武が開幕から抜け出すが、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。, 前年とは逆に近鉄が序盤は首位を走るが、6月になると西武に逆転され、その後は西武の独走を許し2位に終わる。赤堀元之が防御率1.80を記録し最優秀防御率を獲得したが、規定投球回数達成者としては球団唯一の防御率1点台投手となった[31]。シーズン終了後、仰木彬が監督辞任。後任には小玉明利以来26年ぶりとなる生え抜きの鈴木啓示が監督に就任する。, 監督の鈴木啓示と野茂英雄や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。野茂は4年連続で最多勝を挙げるが四球や自責点もリーグ最多で安定感に欠き、野茂以外に10勝以上投手が出なかったものの、抑えの赤堀元之と、石井浩郎、ブライアントなどのいてまえ打線が好調で、開幕から好スタートの直後に連敗が続き最下位に転落するも、最終的には首位の西武と7ゲーム差の4位に終わる[37]。, 開幕の対西武戦で赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤からチームは低迷。6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げ、7月26日から8月10日にかけて球団新記録となる13連勝を記録し一時は首位に立つなど、約1カ月半で32勝6敗、勝率.842の驚異的な成績を残す。しかし、野茂が離脱した8月以降は後退、最終的に首位西武と7.5ゲーム差の2位に終わる[37]。シーズン終了後、野茂が契約のこじれから退団、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍[注 17]。金村義明がFA権を行使し中日に移籍。阿波野が香田勲男との交換トレードで巨人へ移籍。, 開幕直前、吉井が西村龍次との1対1の交換トレードによりヤクルトに移籍。開幕から2年目のリー・スティーブンスが13試合で10本塁打と打ちまくるが、ブライアント、石井浩郎の故障離脱があり投手陣も高村が怪我で離脱、ストッパー赤堀が絶不調もあってチームは低迷。鈴木啓示も途中休養する状況で、8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介の交渉権を獲得するが、福留は入団拒否。ダイエーを自由契約となった山本和範が15年ぶりに復帰。, テスト入団の山本が開幕から活躍しオールスターにも選ばれたが、投手陣の調子の波が激しく勝率5割付近を行き来する展開となる。翌年から本拠地が新たに大阪ドームに移転するため、Aクラス入りし開幕カードを新本拠地で迎えたかったが、終盤戦Aクラス入りをかけた対西武二連戦に破れ、4位でシーズンを終える。オフ、大幅減俸提示を拒否した石井が巨人に移籍。, 本拠地を大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰、大阪ドームも最寄り駅は近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となる[注 18]。また、大阪ドームの使用料も近鉄興業が保有していた藤井寺球場よりも大幅に上がった。1998年以降は観客動員数も増えなかったこともあり年間赤字が年々膨れ上がっていく。, 開幕カードのグリーンスタジアム神戸での対オリックス2連戦がともに雨で中止となったため、4月8日の大阪ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦が開幕試合となり、大阪ドームでの初試合を4対2で勝利している[38]。借金が最大14になるなど、夏場までロッテと5位を争う状況だったが、8月24日の対ロッテ戦(大阪ドーム)でパリーグ史上初(プロ野球通算3度目)の10点差逆転勝利(延長12回)を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。この年の観客動員は186万6千人に達し、球団の年間最多観客動員記録となった[39]。この年限りで大石大二郎が引退。, 8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げ、日本ハムの失速もあり一時0.5ゲーム差まで詰め寄るが、直後に連敗し、西武、ダイエーを含めた4チームの混戦となる。先発投手陣が安定せず1952年以来となる2桁勝利投手が出ず、ロブ・マットソンの9勝がチーム最高の勝ち星となった[注 19][31]。最終的には借金1の5位に終わる。, 4月に地元企業との提携と地元密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズに改称し、9月に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」を設立。4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず(2年連続して2桁勝利投手が皆無だった)、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷して4年ぶりに最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任、後任は近鉄最後の監督となる梨田昌孝。, 就任した梨田に「選手層が薄いが、ケガ人さえいなければ」と言われた状況において、オープン戦で吉岡雄二が骨折こそ免れたものの手首に重傷のけが[40]、シーズンに入って礒部公一が顔面死球で、フィル・クラークが手首骨折で次々に離脱する状況で[41]、中村紀洋が本塁打王と打点王の二冠を獲得するが、チームは33年ぶりの2年連続最下位に終わる。投手陣では3年連続二桁勝利投手は現れず、野手陣でも規定打席到達で3割を超えたのは武藤孝司だけであった。, 開幕戦の3月24日の対日本ハム戦は一時は1対6で5点差をつけられるものの、両軍合わせて8本塁打の打ちあいとなり最後は10対9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、逆転勝利が多く(78勝のうち41勝が逆転勝ち)、7月17日の対ロッテ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、前半戦終了時には、5位のロッテとは5ゲーム、最下位の日本ハム以外が勝率5割以上という状況ながら、10年ぶりに首位で折り返す。この年からロサンゼルス・ドジャースと業務提携を結び、シーズン途中にドジャース元監督のトミー・ラソーダの紹介でショーン・バーグマンとジェレミー・パウエルの2投手、ショーン・ギルバート内野手を獲得。この補強も功を奏した。終盤9月3日から5連敗し、9月5日の段階でもダイエーと同率首位、1厘差で西武が追い、5位まで6.5ゲーム差という混戦となるが、9月9日からの11試合を10勝1敗とした[42]。9月24日の対西武戦ではタフィ・ローズが当時の本塁打シーズン日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打を達成し、試合も9回裏松坂大輔から中村紀洋のサヨナラ2ラン本塁打で勝利し、優勝マジックを1とした。9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム)で2対5とリードされた9回裏、無死満塁から代打北川博敏が日本プロ野球初となる『代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打』で12年ぶり4度目のパ・リーグ優勝を決めている。同一監督での前年最下位からの優勝は1976年の巨人の長嶋茂雄に次いで2人目で、パ・リーグでは初。ロッテには20勝8敗と大きく勝ち越したが[43]、防御率リーグ最下位(4.98)での優勝と2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズではヤクルトスワローズに自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗で敗退。この年の優勝が近鉄としての最後のリーグ優勝となった。シーズン78勝は球団記録。オフ、球団初(唯一)のFA移籍で加藤伸一を獲得。, 5月28日から6月15日にかけて8年ぶりの10連勝を記録し、首位西武に一時2ゲーム差に詰め寄る。しかしその後は西武の独走を許すと、8月16日の直接対決で9点差を逆転負けし、西武に優勝マジック34が点灯[44]。最終的に優勝した西武から16.5ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリーグを含めて1カ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留する。大塚晶文はメジャーリーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。規定打席到達で3割を超えた選手が1人もいなかった。, 1月に会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝と好調な滑り出しを見せ、首位ダイエーと1.5ゲーム差の2位で前半戦を終える。しかし後半戦に入ると、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在や4番中村の負傷・不振が響き3位に後退、そのままシーズンを終える。シーズン終了後、長年主砲として活躍し、この年も本塁打王を獲得しているローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。, 1月31日、ネーミングライツ問題が発覚するが巨人などの反対もあり、失敗に終わる。6月13日、オリックス・ブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。6月30日にライブドアが球団を買収する動きを見せたものの、近鉄は買収には応じず(ライブドアの動きについてはこちらも参照)[46]、8月10日に合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日のオーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日と19日には、この問題に反発するプロ野球選手会による日本プロ野球初となるストライキが行われ、近鉄・オリックス以外も含めて12球団すべての試合が中止となっている[注 20]。, オープン戦で吉岡雄二がアキレス腱断裂で離脱。ローズに代わる主砲と期待されたラリー・バーンズが開幕3戦目で離脱、同じくストッパーとして期待されたヘクター・カラスコも、4月に4連敗で防御率20.00となり登録抹消。4月7日に4位となって以降このシーズンはAクラスになることはなく、4月は最下位で終える。岩隈久志が開幕から球団記録となる12連勝もあり、一時は4位となるが、6月13日の球団合併発表の翌試合から4連敗するなど5位となり、7月は4位で終わるものの、アテネオリンピックで岩隈、中村が抜けた8月7日から7連敗で、以降は5位となる。梨田は合併発表時の時点では「借金4で手ごたえはあった」としているが、7月7日のオーナー会議の時点では選手は抜けがらになり、最後は立ち上がれなかったとも述べている[41]。9月24日、大阪ドームでの最終戦となる対西武戦が行われ、この年ここまで出場のなかった吉岡が代打で出場、この試合が引退登板となった赤堀元之や加藤伸一などが登板。試合は延長11回裏、1死二塁で星野おさむの右翼線へのサヨナラ安打で3対2で勝利、これが球団公式戦最後の勝利となった[47]。9月27日のYahoo!

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