| 韓国ドラマ サイコだけど大丈夫 キャスト 相関図 最高視聴率6.2%で放送中のキム・スヒョン、ソ・イェジ、オ・ジョンセ出演作!! Netflixで放送中の韓国ドラマの登場人物とキャスト、相関図を紹介! [CDATA[ (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ?~すべき就職はしないで出師表~ 1話・2話 あらすじと感想, 【初回31日間無料/dTV】月額500円(税抜)で映画・ドラマ・アニメ・音楽ライブなど12万作品が見放題!. ブログを報告する, 隠れ家へようこそ 出典 : http://www.fujitv.co.jp/sukinahitog…, ポカリスエットのCMで泳いでいる女の子は誰?名前やプロフィールにメイキング映像にも注目!. テレビドラマ 1978年版. See instructions, 韓国ドラマ(現代版)の情報がたくさん!あらすじ・感想・放送情報・視聴率などを随時掲載。, 恋のトリセツ~フンナムとジョンウムの恋愛日誌 全話あらすじと感想 キャスト・視聴率, 恋愛ワードを入力してください~Search WWW~(検索ワード) 全話あらすじと感想 キャスト・相関図 視聴率, 恋愛ワードを入力してください~Search WWW~(検索ワード) 15話・16話(最終回) あらすじと感想, 君のハートを捕まえろ!(幽霊を捕まえろ) 全話感想 キャスト・相関図 視聴率 あらすじ, 恋愛ワードを入力してください~Search WWW~(検索ワード) 13話・14話 あらすじと感想, 愛はビューティフル、人生はワンダフル 49話・50話(97回98回・99回100回)最終回あらすじと感想, キル・イット~巡り会うふたり~-(KILL IT:韓国ドラマ) 全話感想とあらすじ 視聴率 キャスト・相関図, 愛はビューティフル、人生はワンダフル 45話・46話(89回90回・91回92回)あらすじと感想, 愛はビューティフル、人生はワンダフル 43話・44話(85回86回・87回88回)あらすじと感想, 愛はビューティフル、人生はワンダフル 41話・42話(81回82回・83回84回)あらすじと感想, 悲しくて、愛(悲しいとき愛する) 37話・38話と39話・40話(最終回) あらすじと感想, 恋の始まりは出馬から! いや~、感動させるドラマでしたね!もうさ、怖かったよ~!ふみカスがさぁ、可愛かったし!山田君もさ、カッコよかったし!弱くても勝てますで野球やってた人がさ、サッ… To see this page as it is meant to appear, please enable your Javascript! 1977年8月6日クランクアップ[48]。, ラストシーンでは本来無言であったはずの松田が独自に台詞を付けたいとの要望を出し[8]、佐藤監督も台詞つきのシーンを撮ったが、佐藤の判断で台詞はカットしつつも台詞を言った後の表情がとても良かったため、そちらを採用した[8]。, 宣伝は角川と東映洋画で担当[3][13][49]。東映は製作費を出していないため、本作は角川映画であるが『魔界転生』『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』などは、東映が全額製作費を出資した東映映画になる[49][50]。角川春樹は『映画ジャーナル』1977年8月号の岡田茂・松岡功との対談で、「宣伝費は東映サンに3億5,000万~4億円をお任せします。レコードを出すワーナー・パイオニアに2000万円、これはラジオスポットに全部投入します。他にジョー山中のリサイタル費用や全国キャンペーン、それに角川書店側として"森村フェア"のキャンペーンに5億円使いますので、計9億円の宣伝費になります。本は1,000万部突破しても採算が合わんのですよ。今後10年間は森村さんの本が売れ続けるだろうという採算点がひとつ。森村誠一さんと言えば角川だとイメージ付けするのが目的です。宣伝費は経費で落ちますし、今年は10億円余の税金を納めましたし、今は余裕があるので使っちゃおおうということです」などと話している[14]。角川春樹事務所の発表によると宣伝費は11億5000万円[51]。角川春樹は『昭和40年男』のインタビューで「『人間の証明』の宣伝費は4億円」と述べている[52]。映画公開時、公開直後の文献には『人間の証明』の製作費は6億7000万円[24]、宣伝費が映画5億4000万円[33]、映画4億円[24][53]、書籍7億円[33]、書籍5億円[53]、ラジオ2000万円[53]、チラシなどを含めると10億円を越えるなどの記述がある[53]。同時期公開の東映本番線(邦画系)は『ボクサー』だったが、『人間の証明』のテレビスポットCMは4,000回、ラジオスポットCMは1,000回と『ボクサー』の15倍[24]。この他、タクシーに『安全の証明』ステッカーを貼ってもらい[24]、ぺんてるに『品質の証明』[24]、白元に『パラゾールの証明』という宣伝文句を持ち込み[24]、霊友会の家族の日に「感謝してますか生命の証明」という標語を使ってもらうなどユニークなプロモーションもあった[24]。, マンハッタンを背景に顔を黒塗りにした子どもの顔が浮かび上がるポスターデザインは[54]、エースの高木巌ディレクターがジョー山中の息子の顔(幼少のジョニー・ヘイワードとして出演する山中ひかり)を見て思いついたもの[5]。洋画興行界には、黒人映画は当たらないというジンクスが当時あり、リスキーなポスターであった[55]。原作小説を読んでから映画を観るか、あるいはその逆かといった意味の「読んでから見るか、見てから読むか」や「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」「ママ―、ドゥ・ユー・リメンバー」といった大量の予告CMがお茶の間に流れ、これらのフレーズが頭にこびりつくほどで、ドリフターズの番組などで「〇〇さん、僕の××、どうしたでしょうね?」というパロディが演じられるほど話題を呼び[1][2]、かつては映画の競合媒体とみなされたテレビの力によって社会現象にまで高められた[4]。巨額な宣伝費でテレビをフル活用してキャッチコピーを流行らせる手法は本作から始まった[49]。, 岡田茂東映社長は、角川春樹・斎藤守慶との経済誌での対談で、「ウチも含めて各映画会社とも宣伝部がマンネリになっていたと思う。宣伝費は新聞へいくら、ポスターにいくらと決まっていた。『もっと宣伝しなくちゃダメだ』と言いながら、『いやそんなことより重要なのは映画そのものだ。いいものさえ作っておればお客は来るんだ』という職人的観念の流れがずっと続いていた。家電でも自動車で食料品・ウィスキーとか他の業界では、宣伝マンに非常に有能な人を登用する。それが映画会社にはなかった。そこへ、角川社長なる者が現れて大宣伝戦を始めて、方法もテレビ中心で、一大センセーショナルを起こした。『読んでから見るか、見てから読むか』とか、何でもないようだけど、従来の映画人には、この発想ができないんだね。『製作費3,000万円、宣伝費6,000万でいこう』などと言おうものなら『そんな金があるなら製作費に回せ、宣伝費は2,000~3,000万円でいい』というのが今までの流れで、だいいち『宣伝費に2億円使っていいぞ』と言われても、使う方法が分からないわね」などと[56]、岡田に出向させられた吉田達プロデューサーは「われわれ現場で育ったものから見ると、あくまで撮影が主であるという考えがありますが、宣伝が一番大事だという考えは、東映を含めて大手映画会社にないもので驚きました」などと話した[5]。またそれまで監督や出演俳優による舞台挨拶や、地方テレビ局回りなどの全国宣伝キャンペーンは、比較的ゆるやかなスケジュールが組まれていたが[5]、角川がタイトなスケジュールにするよう指示し[5]、以降それが定番化したとされる[5]。, 超大作で長期宣伝の構えであっても、当時劇場や書店等で配布される映画チラシに館名を入れていたため、1977年秋の公開なら1977年2月末には劇場チェーンの目途を付けたいところであった[13]。日本の二大洋画興行網は東宝のTYチェーンと、松竹、東急レクリエーション、東映洋画で組むSTチェーンであったが[13]、配収目標を20億円に置く角川の意向に応えるため、東映洋画は当初、STチェーンでの拡大公開を目指していたが、STチェーンには同じ秋に松竹製作・配給の『八つ墓村』があり、STチェーンの劇場をフル活用できない状況にあった[13]。角川の興行アドバイザー・黒井和男は配給などの相談で東映に日参していたという[49]。角川から「都市部は劇場網が充実している東宝で興行をやってもらえないか」と岡田東映社長に申し入れがあり[10]、岡田はそれを面白がって了承[10]。1977年1月5日に角川春樹と松岡功東宝副社長との話し合いが持たれ、興行のアプローチが松岡から角川にあり[13]、これを受け、1977年2月23日、岡田東映社長が松岡東宝副社長を銀座東急ホテルに招き「『人間の証明』を東宝のロードショー劇場で上映して欲しい」と申し入れ、松岡が原則了承し東映配給の『人間の証明』は東宝の洋画館でのメインでの公開が決まった[13]。東宝の興行収入は40%から60%といわれ[25]、儲けの約半分を独占する形となった[24][25]。この間、東宝は自社で大作を製作せず、邦画本番線は『天国と地獄』のリバイバル公開で対応した[57]。付帯収入が大きいとはいえ[25]、東映の配給手数料は僅か[25]。岡田東映社長がこれを認めたのは、東映も将来的には東宝のように配給中心になることを予想し、内部的にも整理していこうという考えがあったからである[25]。岡田と松岡は親交があり[58]、「他の会社なら決りやしないよ。コヤに話を持ってたって拒否されるに決まってるよ。直営館持ってなかったら決りゃしないね。私と松岡さんが会えば即決だよ。東映と東宝の提携だと思ってくれたらいい。まあこれだけの直営、パッと揃えられる東宝サンに舌を巻きましたよ」などと述べ[14]、岡田は「オレと松岡社長が組んだら日本の映画界はほとんどわがものになる」と公言していたため[58]、"映画界のドン"といわれた城戸四郎松竹、及び映連会長が1977年4月18日に急逝し、松岡功が1977年5月、東宝社長に就任。この提携劇は、かねてから業界で囁かれていた岡田=松岡時代の本格到来の始まりでもあった[58]。, 『八つ墓村』は、松竹の製作・配給ながら、劇場は先に説明した東映洋画を含むSTチェーンで公開されるため、結果、東宝の劇場に出る映画を東映が宣伝し、東映の劇場に出る映画を松竹が宣伝するという、日本映画史上空前絶後の奇妙な映画興行が行われた[26]。これらは当時どん底まで落ちた日本映画が、徹底した合理化で立ち直ったハリウッドを見習いようやく動き出したなどと評された[26]。, 角川春樹は配収17億円、岡田東映社長は15億円と配収の賭けをしていたが[28]、二人の予想を上回る配収22.5億円を記録[1]、この年の興行ベストテン第2位を記録した[1][2]。前年秋の角川映画第一弾『犬神家の一族』を上回った[4]。角川は「東映さんと東宝さんに日本一の興行チェーンを提供して頂くことが出来たんで、配収20億行かなかったら、ボクは映画界から足を洗って、自分の才能に見切りをつけて、出版の方に戻る決意をしています」と公言していたが[14]、映画を引退しないで済んだ。, 1978年10月6日にフジテレビ系列でテレビ放送された際には視聴率35.7%(関東地区、ビデオリサーチ)を記録、映画放送としては歴代7位、日本映画としては歴代5位である[59]。, 本作『人間の証明』で良くも悪くも角川映画の評価は定まってしまい[12]、1990年代に於いても固定観念を拭い去ることは出来なかった[12]。, 東映洋画は同じ年の8月『宇宙戦艦ヤマト』に続く邦画配給の成功で、洋画邦画問わず、東映本体以外の作品を配給する傾向を強めていった[66]。また本作を切っ掛けに角川春樹事務所との提携が深まっていった[66]。, 2000年にDVD化され、2009年にBDソフト並びにデジタル・リマスター版DVDがリリースされた。2012年に改めて「角川ブルーレイ・コレクション」の一作品としてブルーレイディスク化された。, 森村誠一シリーズの3作目として放映された。オリジナルの部分が多い(郡陽子のモノローグや扱いに顕著)。, 製作は東映であるが、東宝の監督が主に演出している(プロデューサー兼俳優の岡田裕介との縁)。2010年7月21日から8月6日に全4巻のDVDが発売された。各巻3話収録で2巻ずつ同時発売されている, 名前の後ろの※は、原作に登場しない人物。※※は、ドラマ版で著しく登場場面が増えた人物。, 第1回21.2%、第2回22.1%、第3回20.4%、第4回21.4%、第5回22.4%、第6回21.9%、第7回20.7%、第8回18.9%、第9回20.7%、第10回18.2%、第11回22.2%、第12回20.5%、最終回24.7%[67][要ページ番号]。, BSジャパンでは2001年1月7日21:00 - 23:24に、テレビ東京系列では同年1月10日20:54 - 23:18に放映された。, フジテレビ系連続ドラマとして2004年7月8日から9月9日まで放映された。全10回。初回は15分拡大の22:00 - 23:09に放送。平均視聴率は12.1%だった。, 「ロイヤルファミリー」の題名で、文化放送連続ドラマとして2011年3月2日から4月28日まで放送。日本ではTBS「韓流セレクト」枠で2011年10月27日から11月21日まで放送。, ドラマスペシャルとして、テレビ朝日系列で2017年4月2日21:00 - 23:10[68]に放送[69]。主演・藤原竜也。原作通り1970年代の設定となる。, 角川文庫で『西條八十詩集』が映画公開にあわせて復刊され、その中で森村誠一もエッセイを寄稿している。, 「Mama, Do you remember...」と歌詞は西條八十の詩を英訳したもの, “角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去(archive)”, https://archive.is/20110528133933/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm, 40周年記念映画祭開催!角川映画はいかにして昭和後期の日本映画界を改革していったか?(前編), 「NEW TOPICS――ドラマスペシャル『人間の証明』」(Remix公式サイト), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=人間の証明&oldid=80083345, 八杉恭子:家庭問題評論家。著書がベストセラーとなり、マスコミの寵児になった。政治家の妻。, ウィルシャー・ヘイワード:ジョニーの父。太平洋戦争から復員して除隊。ジャパンパと呼ばれる。, 小山田文枝:銀座のバーで働く。店名(げんじな)は「なおみ」。小山田の妻で新見の愛人。郡恭平に轢き殺され、山中に埋められる。, ライオネル・アダムズ:当たり屋だったウィルシャー・ヘイワードに慰謝料として4,000ドルを払った金持ち。, 新見:東洋技研部長。人妻のホステス・なおみと愛人関係にある。失踪したなおみを捜索する。, 森戸邦夫:事務機器販売の営業マン。新見に機器購入をちらつかせられて郡邸に忍び込む。. ?~すべき就職はしないで出師表~ 출사표 Into The Ring, Th…, 【PR】 森村誠一シリーズの3作目として放映された。オリジナルの部分が多い(郡陽子のモノローグや扱いに顕著)。. ?~すべき就職はしないで出師表~ 3話・4話 あらすじと感想, 恋の始まりは出馬から! 『人間の証明』(にんげんのしょうめい)は、森村誠一の長編推理小説、およびそれを原作とした映画、テレビドラマ。1975年に『野性時代』(角川書店)で連載された。第3回角川小説賞受賞作品。2010年現在、単行本・各社文庫本計で770万部のベストセラーとなっている。井出智香恵によるコミカライズ化も行われた。, 森村の代表作「棟居刑事シリーズ」の主人公・棟居弘一良の初登場作品。新刊雑誌への連載を前提に角川春樹から依頼されて執筆した作品である。森村は代表作と見なされる本作について「代表作とは読者が決めるものであるが、自分にとって相当に重要な作品である」と語っている。, 東京・赤坂にある「東京ロイヤルホテル」のエレベーター内で、胸部を刺されたまま乗り込んできた黒人青年ジョニー・ヘイワードが死亡した。麹町署の棟居弘一良刑事らは、ジョニーを清水谷公園から東京ロイヤルホテルまで乗せたタクシー運転手の証言から、車中で彼が「ストウハ」という謎の言葉を発していたことを突き止める。さらに羽田空港から彼が滞在していた「東京ビジネスマンホテル」まで乗せた別のタクシーの車内からは、ジョニーが忘れたと思われる恐ろしく古びた『西條八十詩集』が発見された。, 一方、バーに勤めていたとある女性が行方不明になる。夫の小山田は独自に捜索をし、妻文枝の浮気相手である新見を突き止めるが文枝の居場所は分からなかった。文枝はこの時点で轢死しており、犯人は政治家郡陽平と、その妻の家庭問題評論家八杉恭子の息子である郡恭平だった。恭平は車を運転していた最中、スピンを起こし文枝をはねてしまったのだ。発覚を怖れた恭平は同棲者の路子と共に遺体を東京都西多摩郡の山林へ隠す。その後路子の勧めで身を隠すため、路子を伴って渡米しニューヨークに滞在した。, 棟居刑事は「ストウハ」がストローハット(麦わら帽子)を意味すると推理した。また、事件現場であるホテルの回転ラウンジの照明が遠目には麦わら帽子のように見えるため、ジョニーがそれを見て現場に向かったのだと解釈した。また、タクシーから発見された詩集の中の一編の詩が「麦わら帽子と霧積という地名」を題材としていたことと、ジョニーがニューヨークを去る際に残した「キスミー」という言葉から、捜査陣は群馬県の霧積(きりづみ)温泉郷を割り出した。棟居らが現地に向かうと、ジョニーの情報を知っているであろう中山種という老婆がダムの堰堤から転落死していた。群馬県警は転落死と考えていたが棟居らは殺人事件と主張する。棟居らは中山種の本籍のある富山県八尾町へ向かう。捜査の中、八杉が八尾出身であることを偶然発見する。更にアメリカ側からの捜査により、ハーレムに住むジョニーの父親が資産家アダムズの車に飛び込み示談金を得て、ジョニーの渡航費を捻出したことがわかる。父親はその後死亡した。, 新見によるひき逃げ事件の捜査も進み、現場に残されていた熊のぬいぐるみの所持者が恭平であること、ぬいぐるみに付着していた血液が文枝のものであることが明らかになると、新見は単身ニューヨークへ飛び、恭平からひき逃げ死体遺棄事件を白状させた。同じ頃、文枝の遺体がハイカーの大学生アベックにより山中から発見され、その現場から恭平のコンタクトケースが落ちていたことにより犯人は恭平と断定された。新見から、恭平と路子の身柄は警察へ引き渡された。, 八杉とジョニーは生き別れた母子だった。ジョニーの父親は八杉と恋人同士であったが、当時は米国軍人と正式な結婚をすることが出来ず、霧積温泉へ旅行した後、父親は二歳になるジョニーを連れて米国へ帰国し、日本に残された八杉は勧められるままに郡と見合をし結婚をした。しかし、ジョニーの存在が世間に知れ渡り、過去に黒人と関係を持っていた事実が露見することを恐れた恭子は来日したジョニーを殺害し、それらを知っている中山種も殺していた。ジョニーは実母の生活を邪魔しようとは考えておらず、「母親に会って産んでくれた感謝と成長した自分を見て欲しい」という長年抱いていた純粋な夢を達成する目的であったが、皮肉にも命をかけて産んでくれた母親は地位や名誉にしか目を向けておらず、ジョニーの夢は叶ったものの、同時に実母に刺された。母の思いを悟ったジョニーは母が犯人とは判らなくなるよう殺害現場から離れ、棟居の推理通りに麦わら帽子に見える現場に向かって行き息絶えたのだった。自身の複数の殺人、息子の起こした交通事故と遺体遺棄が明らかになり、すべてを失った八杉に、棟居は人間としての心の在り方を問いかける。, 角川春樹事務所製作第二弾[3][4]。東映洋画配給[5][6]。興行は都市部を日比谷映画劇場をメインとした東宝洋画系が[6]、地方は東映が行った[6]。, 松田優作・岡田茉莉子・ジョージ・ケネディがそれぞれ過去に一物を持つ人物を演じ、日本映画で初めて本格的なニューヨークロケが行われた[7][8]。松山善三の脚色は原作と異なる結末になっている。, 映画公開時に用いられた有名な台詞「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」は西條八十の詩がオリジナルであり[注 1]、劇中でも語られている。ジョー山中が歌う「人間の証明」のテーマソングもヒットし、ベストテン入りを果たしている[注 2]。また映画公開に合わせ、文庫フェアも行われ、森村誠一は一躍、ベストセラー作家に躍り出た[9]。"角川商法"と言われた大々的なメディアミックス戦略を本作で早くも確立させた[4][9]。, 東京・赤坂にある高層ホテルのエレベーター内で、胸部を刺されたまま乗り込んできた黒人青年ジョニー・ヘイワードが死亡した。麹町署の棟居弘一良刑事らは、彼をホテルまで乗せたタクシー運転手の証言から、車中でジョニーが「ストウハ」という謎の言葉を発していたことを突き止める。さらにタクシーの車内からは、ジョニーが忘れたと思われるボロボロになった『西條八十詩集』が発見された。一方、ジョニーが殺害された同時刻に、ある女性が何者かにひき逃げされる事件が起きた。犯人は有名ファッションデザイナー八杉恭子の息子である郡恭平だった。恭平は豪雨の中で運転していた最中、飛び出してきた女性に気づかずに轢いてしまったのだ。発覚を怖れた恭平は女性の遺体を東京湾に沈めたが、翌日、女性の夫から捜索願が出された事により事件は公になった。恭平は恭子に事件のあらましを全て告白し、恭子は恭平にアメリカへ逃げるように指示する。その頃、棟居刑事は「ストウハ」がストローハット(麦わら帽子)を意味すると推理した。実際に事件現場であるホテルの回転ラウンジの照明が麦わら帽子状に見えるため、ジョニーがそれを見てそう思い込んだと解釈した。, さらに、詩集におさめられた一編の詩に、麦わら帽子と霧積という地名が記されていたのだった。ひき逃げ事件から棟居は八杉にたどり着く。棟居と八杉の間には深い因縁があった。昭和24年、闇市でアメリカ軍人に襲われていた八杉を棟居の父が助けようとして殺されたのだ。ジョニーがアメリカを去る際に残した「キスミー」という言葉から、群馬県の霧積温泉郷を割り出した棟居が現地に向かうと、ジョニーの情報を知っているであろう中山たねという老婆が何者かに殺されていた。霧積では八杉恭子が戦後、進駐軍向けのバーで働いていたことが分かった。棟居はジョニー殺害の犯人だと推理し、ジョニーの本当の母親を探すためニューヨークへ飛ぶ。棟居はニューヨークでの相棒となるシュフタン刑事の手の甲の刺青から、父を殺したのが彼であることを知る。捜査を進める棟居はジョニーが日本で生まれたことを突き止める。そんな折、棟居はひき逃げ犯の恭平をニューヨークで追い詰めるが、抵抗する恭平はシュフタンに射殺された。, 東京では日本デザイナーコンクールが開かれていた。その席で、棟居は八杉に恭平が死んだことを伝える。八杉とジョニーは生き別れた母子だった。しかし、ジョニーの存在が世間に知れ渡り、過去に黒人と関係を持っていた事実が露見することを恐れた恭子はジョニーを殺害し、それらを知っている中山たねも殺していた。棟居に事の全てを告白した八杉は、霧積の崖から身を投げるのだった。, 翌日、八杉の死亡記事を読んだシュフタン刑事はジョニーの父親を訪ねた。既に麻薬依存に陥っていたが、事の全てを告げると解釈したように首を縦に振り、静かに息絶えた。シュフタン刑事はその遺体を廃墟の片隅に埋めた直後、黒人男性に刺され、そのまま動かなくなった。, 角川春樹は映画製作参入にあたり、各映画会社を訪問したが[5]、最初に訪ねたのは、東映の岡田茂社長の元だった[5][10]。鈴木常承東映洋画部長は「岡田社長から『角川社長が今度映画をやりたいそうだから、いろいろ相談に乗ってあげてくれ』と角川社長を紹介された。角川社長から『ぜひ、映画をやりましょう』と言われた」と証言している[11]。, 角川春樹は1975年11月6日に角川書店社長に就任し[12]、映画は本を拡売するための大きな力になると判断、翌1976年1月、映画製作を目的とした角川春樹事務所を設立した[9][12][13]。角川春樹が映画に便乗して本を出せば売れると気付いたのは、角川書店を干されていた1968年、26歳のとき、早川書房から出ていたマイク・ニコルズ監督のアメリカ映画『卒業』の翻訳本が珍しく10万部も売れたのを見たからである[14][15]。, 1976年5月24日に東京プリンスホテルで記者会見を行い、映画製作の進出を正式に発表し、『犬神家の一族』と『いつかぎらぎらする日』(笠原和夫脚本、深作欣二監督)、『オイディプスの刃』(村川透監督と発表されていた)の三本をまず製作予定と告知した[16][17][18]。『いつかぎらぎらする日』と『オイディプスの刃』はこの時は製作されなかったが、東映は『いつかぎらぎらする日』製作の過程で角川と接触を続けていた[13]。, 角川は1976年5月24日に映画製作第一回として『犬神家の一族』を発表し、原作の関係で配給は東宝になったが[11]、この日に二作目として『人間の証明』を構想していることを知らされた東映洋画は[5]、当時角川の制作宣伝面のアドバイザーをやっていた吉澤利夫から『人間の証明』はまだ配給会社が決まっていないという情報を得て、興行面の窓口をやっていた土橋寿男(黒井和男)に東映洋画で配給をやらせてくれと頼み、角川春樹にも快諾された[5][11]。また岡田茂東映社長も『月刊創』1977年5月号のインタビューで、ホストの勝田健から「今度、おたくが配給面で提携することになった『人間の証明』は『犬神家の一族』で角川が大ヒットさせたもんだから、それでは、ということで横あいから乗りだしたんじゃないですか?」と言われ「いや、それはちょっと違うんですョ。わたしは文庫本のブームを角川がつくったときに、これはいけるって狙いをつけてたんです。もっと砕いて言えば、その張本人である角川春樹っていう若い経営者を買ったといえるかもしれないな。彼はどことなくスターらしい風格が滲みでていますしね」などと話し[19]、自分に似て超ワンマンな角川を買っていた[10][14][20][21]。また『映画ジャーナル』1977年8月号の松岡功・角川春樹との対談で、「戦後の邦画界は、それぞれ固定ファン層をベースに、出来る限り系統館を育成培養しながら、大量生産大量販売システムで稼ぎ上げて来た。映画がテレビに押されて稼ぎが悪くなってからも東映だけは最後までブロックブッキングのメリットを維持して稼ぎ上げて来たんですが、映画興行のあり方、映画配給のあり方が変わりつつあるといえる。去年突如、角川春樹さんが登場して、集中宣伝方式で根こそぎ動員をやらかした。こういう宣伝方式は、ブロック配給を建前とするわれわれからすると、経費増を招くばかりでタブー視されて来たんですが、それと長年何となく職人根性みたいなものがあって、いいモノさえ作れば客は来るんだという観念から抜け切れないんですね。そこへ、角川さんが億単位の宣伝費をバカスカぶち込むことを敢えて試みて、結果爆発的に当たりを示した。となるとモノがいいだけじゃ、最早ダメで、集中宣伝して全国制覇の大話題にしないと大きくは稼げん。そういう時代になったと認めざるを得ない。そういう意味で宣伝のあり方を変えんとダメだ、と実感し『人間の証明』をウチで是非扱って、時代の波の変わりざまを如実に体験したいと思ったわけです」などと述べている[14]。角川春樹は「角川は映画だけが独立して歩み出すことはありません。あくまで出版とのジョイントなくして角川映画は存在しません。この認識の上に立って映画を作るということです。第二作に『人間の証明』を選んだのは、横溝正史さんと違って森村誠一さんは都会で売れてる作家で、地方では売れてないからです。それで映画と第一作ではやれなかったテレビ(ドラマ)を今度はかませて森村さんを売りまくろうという体制です。これが『犬神家の一族』と違う点です」などと話した[14]。, 角川は当時、自前のスタジオや劇場を持っていなかったため[4]、スタジオはどこかを借りればよいにしても、映画を大ヒットさせるためには、配給に関しては全国に劇場チェーンを持つ邦画三大メジャー[22]東宝、松竹、東映のどこかと組まなくてはならなかった[23]。しかし松竹は角川を「新参者」などと嫌い[13][24][25]、角川も松竹が好きでなかったから[23]、実際は東宝か東映と組むしかなかった。角川としても「特定の映画会社の系列に入っていると思われたくない」という考えがあり[26]、第一作で組んだ東宝の誘いを断り[26]、岡田社長を始め、角川に好意的な幹部のいる東映を選び[5][14]、また敢えて、撮影所に日活撮影所を選んだ[26]。角川春樹は『映画ジャーナル』1977年8月号の岡田茂・松岡功との対談で、「興行網については、もう映画界は東宝、東映の二強時代に入ったことは間違いなくいえると思う。劇場の数、質の問題という前に、やはり経営者の決断に満ちた行動力豊かな人を得たという会社の強み、その意味で二強時代に入ったといえると思います。岡田社長にしろ松岡社長にしろ、お話ししてすぐ返事が返ってくる方ですから。二人に巡り合えたのは大変幸せで、二人の決断なくして『犬神家の一族』『人間の証明』も有り得なかったと思います」と話した[14]。, 角川が映画に参入したとき「素人に何ができる」という声が強くあった[13][24]。『犬神家の一族』が大ヒットしたことで、この声は消えたが、角川に悔しさは残った[13]。このため「第二作はそれ以上のブームを興せるものでなければ」と、第二作を何にするかは慎重に考慮された[13]。『人間の証明』が第二作になることが正式に発表されたのは1976年11月18日にジャーナリストを招いて行われた『犬神家の一族』の感謝パーティの席上だった[13]。, 映画の脚本公募は、先に新聞広告等で発表されていたが[13]、1977年1月18日に帝国ホテルで正式な製作発表会見が行われ[13][27]、角川春樹角川春樹事務所社長、渡辺寛角川春樹事務所常務、岡田茂東映社長、鈴木常承東映取締役営業部長兼洋画部長、登石雋一東映取締役企画部長、佐藤純彌監督の6人が出席[13]。『犬神家の一族』に続く角川春樹事務所製作の第二回作品が、東映とジョイントすることが発表された[13]。苦しい日本映画界にあって第一作『犬神家の一族』を大当たりさせたことから角川春樹の鼻息も荒く[28][29]、本一筋だった父親の路線を大幅に踏み外し「書籍、映画、演劇、テレビ、レコードと相乗り商法を行い、脚本は一般から500万円の賞金付きで募集、映画に宣伝費も含め6億円を注ぎ、配収17億円を目指す」などと話した[28][29]。「素人は恐ろしい」と日本映画界を震撼させた札束攻勢は空前のエスカレートぶり[29]。また前作で不正伝票問題でプロデューサーと揉めたため、今回は金の管理は一人でやると話し[28][29]、「第一作が皆様の御支援で大ヒットしたので第二作を何にするか神経を使いました。第一作以上の可能性があるという意味で『人間の証明』を選びました。今回も書店との関連で話題を広げていくつもりです。東映と配給契約ができたことを喜んでいます」[13]「ニューヨーク市警の刑事役に、ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマン、ジーン・ハックマン、クリント・イーストウッドを起用したい。日本人は端役といえども主演級を起用し、国際マーケットを狙う」などと話したため、並みいる映画記者をポカンとさせた[28]。提携する岡田東映社長も「我が社が世界に売って見せる」とラッパの競演をし[29]、「若いプロデューサーの出現は喜ばしいことだ。私はアシスタントとして全面協力していく」などと話した[13]。鈴木東映洋画部長は「洋画系のフリー・ブッキングで配給するのが角川さんとの基本的な話なので、洋画系のロードショー劇場での上映を考えています。東映が預かる作品なので、前作の上を行くように全力投球します」と話し[13]、渡辺角川春樹事務所常務から「製作費は直接費だけで4億5,000万円、映画のための宣伝費2億円、書店の関連での宣伝費が4億5,000万円」を基本に全て大掛かりに勝負していく」などの説明や[13]、ジョニー・ヘイワード役の一般募集の発表があった[13]。, 同じ日に岡田東映社長が『キネマ旬報』のインタビューに答え、「角川との提携について東映の体質では難しいとの声があるが、東映はそんなに古い体質の会社ではない。『犬神家の一族』がなしたことは、映画界ではなしえなかったことだ。映画のエポックとして、今後も語り継がれて行くと思う。映画界は大きな利益を得たし、私たちは、この若いプロデューサーの出現を喜ぶとともに歓迎しなければいけない。東映は新しい才能とジョイントするということだ。東映という会社の中でのものの考え方ではなく、もっと広い意味で才能を持った人やプロの人たちとジョイントすべきで、同じことの繰り返しはマンネリ化するだけだ。『人間の証明』は、かなり前から洋画部長の鈴木が『角川さんとジョイントしたい』というので大賛成し話を進めさせたものだ。この作品はこちらからお願いする筋のものだから『人間の証明』は東宝配給と決まっていない、どことも決まっていないというので、角川さんに『ウチで配給させて下さい』と頼み、配給条件を提示した。正式なオファーはウチだけだったと思う。強い作品を持つ製作会社に配給のオファーをするのは、配給会社の義務で、強い作品を持つ配給会社に興行会社が上映のオファーをするのと同じことだ。決定する権利は『人間の証明』については角川さんが持ってる。もちろん、製作については、角川さんのやり易いように協力することにしている。『人間の証明』はウチではできない作品だ。ウチはずっと"不良性感度"で売ってきたからね。ウチの観客とは違うし、ウチの番線でやる作品ではないから、角川さんと話し合って洋画番線でやることにした。新しい形でやる。『人間の証明』は角川さんがエグゼクティブ・プロデューサーで、補佐するプロデューサーにウチの吉田達を出向させた。また佐藤純彌監督にも『ウチの使いたいスタッフをどうぞ使ってください』と言ってある」などと話した[13]。また『映画ジャーナル』1977年8月号の松岡功・角川春樹との対談で「映画は莫大儲かるということを角川さんや橋本プロが立証して見せたことだし、才能の出し方次第で誰しも参加できる、そういう仕組みを映画会社で作り上げて行くことを果たさんとイカンと思う。そういう意味でアメリカと同様、日本もプロダクションの時代がやがて来ると思います」などと話した[14]。, 1977年3月14日には高田馬場のBIG BOXで、シナリオの当選者発表会見が行われた[13][30]。, 1977年3月16日には東映本社8階会議室で、岡田東映社長、鈴木東映取締役洋画営業部長兼洋画部長、松岡功東宝副社長(1977年5月社長就任)、越塚正太郎東宝興行部長が出席し、全国上映館と興行形態について共同会見があった[7][31]。配給は東映洋画であるが[3][6]、興行は東宝がメインというのも日本映画で初めてのケース[3][6][7]。全国75都市、90館のうち、東宝系劇場で50館、東映系劇場が24館、その他独立系劇場で16館[6][31]。都市部が東宝、地方が東映という振り分け[6][31]。配給が東映で、興行が東宝と紹介されることが多いが、正しくは都市部が東宝、地方は東映の興行である[7][31]。このような変形システムは日本で初めて[32]。これは『犬神家の一族』の大ヒットで角川映画が一定のブランド力を持ったからこそ可能となった"いいとこ取り"であった[4]。史上最大最強規模と称する配給興行網に乗せ[33]、かつての五社体制は分解して興行網の力が弱まり、映画は今後、企画から上映までフォローする一種のベンチャア・ビジネス化に向かうと評された[33]。岡田東映社長は「今回東宝と意見が一致したのは『犬神家の一族』の教えがあったからだ。角川の爆発力というか、集中起爆のミサイル宣伝力を高く買ったからだ。それでなきゃこんな大きなチェーンを組んでやるもんか。日本に於ける最強最大のマーケットを形成することが出来たと思う。あとはシャシン次第だが、我々としては最強のマーケット、最強の宣伝力で10月興行のエクランを飾り、日本映画のレコードホルダー『日本沈没』を上廻る配収20億円台突破にチャレンジする。これだけの体制で製作公開するので、配収が20億円行かなかったら作品の出来が悪いということだ」などとブチ上げた[6][7]。東映としてもより多くの配給手数料を稼ぐためには、東映より強力な劇場チェーンを持つ東宝に興行を委託した方が得策と判断し、あえてライバル会社を指名した[26]。松岡東宝副社長は「興行に関しては東宝が日本一と自負してる。我々の劇場と地方都市では東映のいい劇場をミックスし、角川の宣伝力、東映の配給力、東宝の興行力の三つの力で120%の成果を上げたい」などと話した[6]。また松岡は『映画時報』1977年4月号のインタビューで、「角川さんの才能と努力で、映画というものはやりようによっては儲かるんだという実証が出来たということは非常によいことだと思います。映画というものは斜陽で儲からない、手を出してはいかんという通説を覆したわけですから。内容によっては非常に短期間で、それほど大きな資金投資をしなくても非常に大きな利益が上がってくると、そういう仕事はあんまりありませんしね。ウチはどんな会社の映画でも、東宝として興行してみたいと思うものであれば、やりますと常々表明してますし、題材からしても、ウチの劇場に向いていると思い、やらせてもらいたいと今回は話がまとまったわけです。今後もこういうケースは出てくると思いますね。条件さえあえばね。まあ東宝、東映、松竹というのは、おのおの邦画の製作配給というのをやってるわけで、変形であったとしても、ブロックブッキングを敷いているわけです。ブロックブッキングというのは、年間を通じて東宝なら東宝の映画を劇場にいい作品を提供しますから、いつもこれ以上は上映しないで下さいという契約ですから。そこへいい映画が出来たからといって、このチェーンよりあっちのチェーンがいいから向こうへ行きますというのは大問題なわけです。しかし今回は洋画ですから。洋画というのはフリーブッキングでやってるわけですから、どこの映画がどこへ行ったって別に興行者サイドにとりましたら、それほど大問題ではないんです。今回は上に東宝と東映がくっついているから、ちょっと目新しく、大きなことのように感じるだけです」などと述べた[34]。, 1977年3月26日、ホテルニューオータニで、岡田茂東映社長、角川春樹角川映画社長、森村誠一、佐藤純彌他、主要キャストが全員参加し[13]、関係者多数も含め、大々的にマスコミ発表会見が行われた[6]。ホテルニューオータニは原作者の森村誠一がホテルマンとして勤務していたところ[35]。全国から記者200人が集まった[35]。席上、アメリカ側を含めた全てのキャスティングが発表され、直接製作費6億円余、宣伝費3億5,000万円、その他合計10億円を投入すると発表された[6]。読売新聞夕刊1977年3月1日の記事では、角川が「直接製作費4億5,000万円、宣伝費2億3,000万と秋に行う文庫本の森村誠一フェアに4億5,000万円をかけて大がかりなPR攻勢をかける。第一作『犬神家の一族』がフロックでないことを証明するため、儲けを全部つぎ込み、第一作を上回る実績を上げたい」と話したと書かれている[32]。, 本作は角川映画製作、東映配給ではあるが、角川はまだ映画製作は二本目でノウハウは充分ではなく、製作面でも東映が大部分協力している[5][8][13]。角川春樹以外にプロデューサーとしてクレジットされている二人のうち、吉田達は東映のプロデューサーで岡田茂の懐刀[13][36][37][38]。東映洋画に製作の人間がいなかったため[5]、岡田からプロデューサー主導の映画作りの勉強に[37][38][39]、角川春樹番として[38]、外部出向させられた[5][13][38][37]。日本側のキャスティングは吉田達が担当し、決済を角川春樹が担った[35]。スタッフ編成も佐藤純彌監督と吉田達が行った[13]。佐藤は当時はフリーであったが、東映育ちである。, もう一人のプロデューサー、サイモン・ツェーも東映のニューヨーク出張所の紹介で[5]、コーディネーターとしてニューヨークロケとアメリカ側のキャスティングを手引きした[13]。アメリカ側のキャスティング、撮影クルーの編成他、全ての費用100万ドルをサイモン・ツェーに預けた[35]。日本映画では初めて外国人スタッフを使って撮影が行われた[6]。, 1976年11月に製作が決まり、最初に監督を誰にするかが角川事務所内で議論され、佐藤純彌に11月下旬に打診[8][13]。佐藤は四日市の公害問題をテーマにした企画を東映に提示していたが一蹴され、東映から干されていた時期[8]。角川春樹にも興味があり[8]、東映と別のところで仕事をしたくて佐藤が原則了解した[8][13]。, スタッフ編成は異例の東映ら日活などの混合スタッフで組まれた[13][40]。撮影の姫田真佐久は、佐藤が日活のスタッフと一緒に仕事ができると聞き[8]、佐藤が今村昌平作品が好きで、今村作品のカメラを手掛けた姫田に頼んだ[8]。この姫田が著書で「役者に演技指導しない」「本番中によそ見をする」「演出のできない監督」などと佐藤を批判した[8]。, お互いのやり方が根本的に異なるギクシャク感で、ニューヨーク長期ロケや、キャストの麻薬事件もあり、トラブルが続出で“ミスター超大作”佐藤純彌でなければ空中分解してもおかしくない、完成できたのは奇跡的なくらい難産だったといわれる[40]。, 原作では女流評論家だった岡田茉莉子が最初に決り[32]、角川が「映画を成功させるため、どんな端役でも主演級を使いたい」と大物をリストアップ[32]。ニューヨーク市警の刑事役には『ジョーズ』で警察署長を演じたロイ・シャイダーを第一候補に挙げたが[32][35]、『ジョーズ2』撮影のため断られ[35]、ジーン・ハックマンは内容を聞く前に妻との離婚費用に100万ドルの前金を要求したため、条件面で折り合わず[35]。ジョージ・ペパードとジョージ・ケネディが最終的に残り、交渉に入ったところでケネディが「金のことより、日本映画で初めてアメリカに乗り込んで来る作品は俺にやらせろ」と名乗りを上げたため、ジョージ・ケネディに決まった[35]。ケネディは「日本へは1952年に兵隊で一年間滞在したが、その後の発展に驚いている。アメリカと組んで映画を作ることは、今やヨーロッパ諸国では常識。日本映画がもうアメリカと手を結ぶのは当たり前でなくてはならない時代だ。その第一作を貴殿が考えていることに敬意を払うと同時に私は必ず貴殿の意に沿うようよう全力を尽くすことを約束する」と角川春樹にテレックスでメッセージを寄せた[35]。他にニューヨーク市警察署長に『オール・ザ・キングスメン』でアカデミー主演男優賞を受賞したブロデリック・クロフォードが、億万長者役に日本びいきのリック・ジェイソンがキャスティングされた[35]。, 日本側のキャスティングは東映の吉田達が担当し、決済を角川春樹が担った[35]。日本側の棟居刑事役は、渡哲也が年齢的にも適役と関係者も衆目一致で、渡一本に絞って交渉したが、渡は自分を犠牲にしてでも他人に尽くす人間性から、かつて東映作品出演でオーバーワークにより死にかけた悪しき前例があり[35]、渡主演による『大都会 PARTII』が1977年4月から計26本の契約で石原プロは日本テレビから全面製作の契約を交わしており[35]、渡は石原プロの副社長という立場で社員に対する責任も大きく、一ヵ月に及ぶニューヨークロケは大きなネックで、スケジュールの調整が付かず断念した[35]。代役候補は、原田芳雄、松田優作、高倉健、中村敦夫の四人だったが[35]、原田は生来の飛行機嫌いでダメで、高倉健と中村敦夫はスケジュールの調整が可能な状況。通常は第一候補、第二候補の順番に出演交渉を行うが、時間がないため、高倉健と中村敦夫、松田優作にシナリオに渡して読んでもらった。松田はまだ海のものとも山のものともつかぬ位置付けだったから、ネームバリューのある高倉健をスタッフは推した。しかし配給・興行サイドは、角川映画の新しいチャレンジとして、松田をスターダムにのし上げることに賭ける方が可能性は大きく、既成のイメージのあるスターを避けた方がいいと対立した[35]。中川右介著『角川映画 1976‐1986』には「松田優作は『オイディプスの刃』の出演者予定だった一人で、角川が以前から目を付けていた」 [16]『昭和40年男』2016年4月号には、棟居刑事役は「佐藤監督が『新幹線大爆破』や『君よ憤怒の河を渉れ』で組んだ高倉健を推したが、岡田茉莉子は棟居より年上という原作設定のため、岡田より年上の高倉では合わないとなり、角川が当時27歳の松田優作を抜擢した」と書かれてるが[4]、当時の文献には「角川が、岡田茉莉子、ジョージ・ケネディ、高倉健ではどうしても古臭いイメージが出ると懸念し、最終的に松田優作の抜擢を決めた」と書かれている[35]。佐藤監督は「それまで松田優作はB級だったけど、この映画で彼をA級スターにしたいと角川さんの強い意志で抜擢が決まった。薬師丸ひろ子もそうですが、角川さんには人を見抜く目があった」と述べている[8]。松田も『大都会 PARTII』にレギュラー出演しており、スケジュール調整に難航したが何とか調整をつけた[35]。鶴田浩二の脇役での映画出演はほぼ二十年ぶりで[35]、何度も東映で仕事をした旧知の吉田達の依頼に応えたもの[35]。, 出演はならなかったが那須警部役は、渥美清も出演交渉を行ったとする文献や[32]、山口百恵にも出演交渉したと書かれた文献もある[32]。その他、三島雪子役に笠井紀美子[35]、朝枝路子役に秋吉久美子[32][35]、郡恭平役に草刈正雄と交渉したが条件等が合わず出演はならなかった[35]。梶芽衣子も候補に上がったが、たった一日の撮影にギャラ300万円を要求したため断ったと吉田達が証言している[35]。, 全体的なキャスティングについて『キネマ旬報』1977年5月下旬号には「このキャストでは大作のイメージがない」と書かれている[35]。, 脚本は最初、長谷川和彦に依頼し、角川春樹が直接長谷川に交渉したが[41]、長谷川が角川に対して無礼な物言いがあって流れたといわれる[42]。長谷川は1977年秋の映画誌のインタビューで「角川と一緒に飲んだ時、『お前金持ってんだから、小屋(映画館)作れ、映画やるんだったらその方が絶対儲かる』と俺が言ったら、奴は『そんなヤバイ事はしない』と言ったな。『ヤバイ事は』と。小屋持つと撤回しづらいからな。映画からいつでも撤退する気でいるのは小屋を持とうとしないので判るよ。奴は商売としての映画が好きなんで、映画自体が好きなんではないんだよ。作家の選び方でもそれが判るし、イエスマンとは言わないまでも、奴はプロになりきっている人間としか組まないだろう。ああいう映画作るしかないんだとなったら、金の無い奴は本当に困るし、あれがのさばり過ぎても困るよ」などと話した[43]。, 1976年12月初旬、高額の賞金500万円を掲げて、新聞広告等で大々的に脚本を公募した[30][44]。当時の脚本料の相場は100万~120万円[4]。大作映画でシナリオ公募は前代未聞[4]。1977年2月15日締切まで集まった応募総数669篇[30][44]。脚本家・監督の松山善三は「プロに対する挑戦だ」と、多くのプロのライターが変名で応募する中、堂々、本名で公募に参加[7][8]。プロアマ問わずとの条件で最終選考に残ったのは、松山善三、脚本家の松田寛夫、山浦弘靖、林企太子、俳優・プロデューサーの岡田裕介(現東映社長)、推理作家の小林久三のプロ6人とアマ4人の10人[30]。選考委員は、角川春樹、佐藤純彌、黒井和男、白井佳夫、渡辺寛角川春樹事務所常務の5人[44]。一般公募とされるが、本数が足りなかったり、良いものがないときのために角川が松田寛夫と神波史男をこっそり参加させていた[8]。, 1977年3月12日、東京四谷の料亭福田屋で、応募者の名を伏せて上記5人による選考会の模様は『キネマ旬報』707号(1977年5月1日刊行)誌上に公開された[44][8]。最終的に3本に絞られた中で討議されたが[8][44]、「(公募に頼った)考えが甘かった」等、ボロクソに貶す意見が相次ぎ[44]、黒井「監督の意見が入りやすい」角川「切りやすい」白井「たたき台にしていく方がいい」佐藤「松山さんの脚本だけ原作にない棟居がアメリカに飛ぶ設定」[8]などの理由で入選作を決定した[44]。最優秀として松山善三に賞金500万円、入選作として小林久三と松田寛夫に各250万円が贈られた[44]。この松山脚本を角川と佐藤と松山の三人で手直しし、基本的な脚本を完成させた[44]。佐藤が推していたのは松田脚本だった他、作品内容が相容れない要素が多く、2018年のインタビューで「当時は毀誉褒貶が激しかったですね。最も苦労した作品、その分、思い入れも深い」などと話した[8]。, 撮影期間はアメリカロケ1ヵ月を含む約5ヵ月[4][13]。1977年4月6日、ニューヨークロケからクランクイン[32][35]。日本映画では初めての本格的なニューヨークロケで[4][13]、日本映画で初めてアメリカのユニオンと契約を交わし[4]、現地スタッフを雇用した[4][13]。ニューヨークロケは準備を合わせて約40日間で[35]、実働17日間[35]。ニューヨークロケは当時のニューヨーク市長まで現場に現れ、街全体がオープンセットのように何でも撮れて協力的だった[8]。ニューヨークロケ中、女優のスケジュールの都合で松田とサイモン・ツェーが揉めて松田がサイモン・ツェーを殴った[8][45]。松田は執行猶予中だったため、この暴力沙汰は隠された[45]。また撮影中、岩城滉一が覚醒剤取締法で逮捕されたため、岩城の声は吹替になり、シナリオの修正も行われた[8]。さらに主題歌を歌うジョー山中もシングル発売予定だった1977年8月10日に大麻取締法違反容疑で逮捕されたため、テレビで歌うことはなかったが、当時はレコード自体は発売が続き、テレビCMでも曲が流され続け大ヒットした(最高位2位、51万枚)[45]。, スタジオ撮影は1977年5月24日から日活撮影所で二ヵ月半[3][45]。撮影が日活だったことが従来のパターンを壊したとことさら強調されるが、日活撮影所はレンタル料が安いため[46]、他社もよく使用していた[46][47]。1977年6月29日、ホテルニューオータニでファッションショーのシーンの撮影[48]。山本寛斎が協力したこのシーンだけで2,500万円を投入[4][48]。岡田茉莉子が住む豪邸のセットは、内装からインテリア類まですべて本物を使用し製作費3,000万円[4]。岡田の着た衣装は撮影後、オークションにかけられた[45]。, 国内ロケ地は1977年7月新潟県小谷村[3]。

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