アメリカを始めとする連合国がイラクに空爆を開始し、イラク戦争と発展しました。 自衛隊イラク派遣(じえいたいイラクはけん)は、イラク戦争初期の2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月まで行なわれていた、日本の自衛隊のイラクへの派遣行為の総称である。 その目的は、イラクの国家再建を支援するためである。 目的はあくまでもイラク戦争で混乱してしまった国家の再建を図るためである... 2003年、アメリカはイラク戦争を開始しました。 日本の自衛隊がイラク戦争に派遣されていた事はご存じの人も多いだろう。存在しないと言われていた自衛隊の日報が発見されたのである。これにより、イラク戦争に日本がどのように関与していたのかがわかる事となるのだ。 もともとイラク戦争は多くの国に反対されていたものでしたが、日本の総理大臣である... イラク戦争は2003年3月20日に始まった戦争です。 2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロが起こり、その翌年にはアフガニスタン... そもそもイラク戦争には国際法の問題が多々指摘されていました。 ... イラク戦争でイラクを攻撃したのはアメリカだけではありません。 投資・節税・保険・ローン・クレカ・節約などのテーマの情報を各領域の専門家や編集部を通して記事配信していきます。. イラク ここではイラ... イラク戦争の後、日本からは自衛隊がイラクに派遣されていました。 それならばイラク戦争は経済にどのような影響を与えたのでしょうか。 アメリカを始めとする連合国がイラクに空爆を開始し、イラク戦争と発展しました。 イラク戦争に介入したのは連合軍であり、それらの国々はイラクの自由作戦のな... 湾岸戦争とイラク戦争はどのように違うのでしょうか。 もともと反対されていたということもありますが、アメリカはその反対を押しき... イラク戦争でイラクを攻撃したのはアメリカだけではありません。 湾岸戦争の時に結ばれた停戦協定ではイラ... イラク戦争と言えば、2003年3月20日に始まって5月10日にはブッシュ大統領が勝利宣言をしたという極めて短い戦争です。 西暦1990年(平成2年)の8月2日に中東の国、イラク共和国が隣接する国クウェートに侵攻し占領するという出来事が起き、国際連合はイラクに対して制裁を加えることを決めました。決められた期日までにイラクがクウェートから撤退しない場合、アメリカを中心とする国々がイラクを武力攻撃することが国連で認められる結果となります。国連の決議によってアメリカを中心とした複数の国々が参加する多国籍軍は、決められた期日、1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しな … イラク戦争は日本にも大きな影響をもたらしたといえます。 ... 戦争起こすと経済が回復するということがあります。 イラク戦争, もともとイラク戦争は多くの国に反対されていたものでしたが、日本の総理大臣である小泉純一郎はイラク戦争を支持していたのです。, 声明を発表する時にも、書面には「この戦争を理解する」と書かれていたとされますが、小泉首相は「この戦争を支持する」という強い言葉に置き換えました。, 最終的にこの態度はアメリカに忠誠心を表したかっただけだったのではないかと非難されることになります。, また、湾岸戦争の時には日本は資金や物資の支援はできても人的支援ができないという状態でした。, それに対し、このイラク戦争は人的資源という面で日本に影響を与えることとなるのです。, もちろん自衛隊というのはあくまで日本を自衛だけのものであり、他の国を攻撃するという力がありません。, それにもかかわらず戦力を持たない状態で海外に行って良いのか、戦争には関わらないのではないのか、自衛官は安全なのか、ということが問われるようになったのです。, しかし、後に自衛隊がいた地域にも爆撃が行われており、実際には危険にさらされていた自衛官もいたと言われています。, その一方で小泉首相が「自分に非戦闘地域が戦闘地域かなんて区別がつくはずがない」「自衛隊がいる場所こそ非戦闘地域」などという発言を認め、さらに強い批判を受けることになりました。, もともと戦争には関わらない、戦略は持たない、と言っていた日本が海外の人道復興支援に関わるというのはいかがなものか、という点でいまだに矛盾が生じているのです。. 実際には、国際情勢も、日本を取り巻く状況も1980年代に大きく変化していた。冷戦は急速に終焉に向かっており、イラクのクウェート侵攻の前年(1989年)11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタでブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長が冷戦の終結を宣言していた。中国ではこの年の6月に天安門事件が起きたが、鄧小平は改革開放の継続を求めており、1990年代初頭には西側への協調姿勢が強かった。イラク … 混迷を深める中東情勢。その元凶をつくったと言われているのが2003年に起こったイラク戦争です。結果は、中東情勢を泥沼化させる悲惨なものとなりました。, 今回は、そんなイラク戦争とは具体的にどんな戦争だったのか、原因、死者数、そして日本の関りを抑えながら、わかりやすくまとめていきたいと思います。, イラク戦争が開戦される13年前、イラクのクェート侵攻を原因に湾岸戦争が勃発しました。イラクvsアメリカ率いる国際連合軍という構図です。, 当時のイラク大統領はサダム・フセイン、アメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ(パパ・ブッシュ)でした。国連の安保理決議に沿って行動したパパ・ブッシュは、イラクがクェートから撤退した後は追い打ちをしませんでした。, 湾岸戦争は国際連合軍側の勝利に終わります。ただし、イラクの大統領サダム・フセインは生き残りました。アメリカとイラクの関係はその後もぎくしゃくし、月日が流れていきます。, アメリカは実行犯であったアルカイダのリーダー、オサマ・ビン・ラディンをかくまっているとして、アフガニスタンのタリバン政権を報復攻撃しました。, 時のアメリカ大統領は、パパ・ブッシュの息子であるジョージ・W・ブッシュです。親子二代にわたり、アメリカを戦争への道と誘うことになりました。, アフガン攻撃を経て、攻撃の矛先はイラクのフセイン大統領にも向けられるようになりました。イラクが大量破壊兵器を保持しているという情報をアメリカが手に入れ、「テロを起こしかねない危険な国家」であるとしたのです。, イラク戦争が勃発した原因は、イラクとアメリカの長年にわたる対立関係にあります。湾岸戦争後、イラクには国連の調査団によって大量破壊兵器が所持されていないかチェックされていました。, 国連安保理決議において、この調査に積極的に協力することがイラクに義務付けられました。, しかし、イラクはこの調査に徐々に非協力的になっていきます。抜き打ちの調査やアメリカの影響を強く受けている国連の調査団に対して反発したためです。, この一連のイラクの行動に対して、アメリカはフラストレーションを溜めていきます。実際にジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年の一般教書演説で、イラクを「悪の枢軸」として、名指しで批判します。, アメリカは国連安保理において、イラクへの武力制裁に関する決議案を通そうとします。しかし、ドイツ、フランス、ロシア、中国の強い反対にあったため、決議案を採択することができませんでした。, 国際世論を無視して、イラクへの攻撃を行ったことに、世界各地から非難の声があがりました。, 2003年3月から始まったイラク戦争は大規模な戦闘を経て、同年5月に「戦闘終結宣言」出されます。, フセイン大統領は逃亡を図り、イラクはアメリカ軍によって占領されることになりました。, これで一件落着かに見えましたが、その後、イラク国内で調査が行われたところ、当初あるはずだとされていた大量破壊兵器が見つかりませんでした。, また、旧イラク軍を中心となって駐留アメリカ軍に対する攻撃が行われ、イラクの治安は悪化していきました。, フセイン政権を打倒することはできましたが、イラクを安全な地域にすることはできなかったのです。, イラクの占領政策は泥沼にはまっていきます。そして、2010年にオバマ大統領による「戦闘終結宣言」が出されるまで、アメリカ軍の占領政策は継続しました。, 2003年から2010年にかけて、イラク戦争による死者数は推定50万人にのぼると言われています。もちろん、正確な人数は出すことができていませんが、それだけ悲惨な戦闘が長期的に行われていたということになります。, イラク戦争によって、イラクの地は荒廃しました。その後、アメリカ軍の占領政策によってインフラの整備が進められますが、イラク国内でテロ活動が相次ぎ、多くの犠牲者がでました。, アメリカは度重なる派兵によって、これを抑え込もうとしますが、治安を完全に回復させることはできませんでした。, イラク戦争から帰還したアメリカ兵は、祖国に戻った後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)により、精神的に不安定な状態となってしまうことがありました。, 日常生活で、戦場の様子がフラッシュバックし、パニックに陥ってしまうのです。戦場から物理的に離れても、精神的には離れられないという悲惨な状態に陥る事態が多発しました。, アメリカ兵のみならず、イラク側も甚大な被害がでました。特に、兵士ではない民間人が戦闘に巻き込まれてしまうケースが多く、この事態に対して、人権団体はアメリカを強く非難しました。, イラク戦争勃発後、日本の国会においてイラク特措法が制定されます。この法律に基づいて、イラクへの自衛隊派遣が決行されます。, 日本の場合、日本国憲法第9条より、自衛隊が他国と戦闘を交えることは禁止されています。よって、イラクでの自衛隊の活動は限定的なものにならざるを得ませんでした。, 戦闘支援は禁止され、比較的治安が安定している地域で給水活動を行ったり、道路や学校施設の整備を実施しました。, イラクへの自衛隊派遣には、国内から懐疑的な声が多く挙げられました。イラク戦争は湾岸戦争と異なり、国連による指揮で行われている戦闘ではないため、その戦闘を支援する理由はないとする意見が出されました。, また、国外では自衛隊は「アメリカ軍を中心とした有志連合の一員」としてみなされていたため、本来、日本を自衛するための組織である自衛隊の目的と食い違っているとする意見も出されました。, 当時の日本の内閣総理大臣は、小泉純一郎氏でした。小泉総理大臣は、日米安全保障条約に基づく日米関係を重視する傾向にあり、イラクへの自衛隊派遣は日米関係を考慮したものであるとさえ言われました。, イラク戦争で行われたグレーゾーンな状態での自衛隊派兵が、現在の憲法改正の動きや安保法制の整備に繋がっていることが伺えます。, 2010年以降、アメリカ軍はイラクからの撤退を進め、治安維持の権限をイラクに引き渡します。, アメリカとしては、泥沼であったイラク戦争から一歩抜け出すことができました。しかし、イラクの情勢はその後さらに悪化していくこととなります。, イラクにおいて、イスラム国をはじめとしたイスラム原理主義勢力が台頭し、イラク国内で大規模なテロ、並びに西洋諸国の人間をターゲットとした人質事件を巻き起こします。, イラク軍はイスラム原理主義勢力を単独で鎮圧することができず、事態は混迷を深めています。, アメリカは、イスラム原理主義勢力を抑え込むため、イラク北部に勢力をもっているクルド人を支援します。クルド人は、自国を持たない世界最大の民族集団として有名です。, クルド人としては、イスラム国を倒した見返りとして、クルド人国家の樹立させる狙いがあります。, ただし、イラクや周辺の中東諸国がクルド人国家の樹立を認めるかどうかは定かではありません。次の紛争の火種が、すでに見え隠れしています。, イラク戦争によって、中東地域の治安は悪化し、イスラム原理主義勢力の台頭を招くことになりました。, もちろん、イラク戦争のみが中東地域を混迷な状態にしたとは言い切れません。イラク戦争のきっかけともいえる同時多発テロ、また湾岸戦争によるフセイン政権への攻撃など、様々な要因が複雑に絡まって、今の中東があるといえます。, アメリカでは、自国の利益を最大限に考えるとするトランプが大統領に就任しました。イラク情勢をめぐるアメリカの行動を今後も注意深く見ていくことが大切であると言えるでしょう。, 「お金のコトをもっと身近に」というミッションで、みんなのお金ドットコム(みんかね)を運営しています。 この頃、テロとのグローバル戦... 戦争起こすと経済が回復するということがあります。 その中で日本政府は、公正かつ中立な立場でイラン・イラク戦争に対して仲介の労をとろうとしており、イラン政府からもそれを評価されていました。 85年3月5日頃から両国の都市攻撃が開始し、戦火は次第に激しさを増していきました。 国連PKO, 1990年8月、イラクがクウェートに軍事侵攻し、翌年1月には多国籍軍によるイラク攻撃へと発展した。冷戦後、世界が初めて経験した国際危機に日本政府は大きく揺れ、日本外交が直面する課題を痛感することとなった。20年余を経た今、「湾岸ショック」とまで呼ばれた日本の湾岸戦争への対応を振り返る。. 湾岸戦争の時に結ばれた停戦協定ではイラ... イラク戦争と言えば、2003年3月20日に始まって5月10日にはブッシュ大統領が勝利宣言をしたという極めて短い戦争です。 混迷を深める中東情勢。その元凶をつくったと言われているのが2003年に起こったイラク戦争です。結果は、中東情勢を泥沼化させる悲惨なものとなりました。 今回は、そんなイラク戦争とは具体的にどんな戦争だったのか、原因、死者数、そして日本の関りを抑えながら、わかりやすくまとめていきたいと思います。 第2章 テロとの戦いからイラク戦争へ 36 2)イラク戦争に対する日本の支持表明 2003年3月20日、イラク戦争が始まった。こ の戦争が、まず戦争ありきという米国ブッシュ政 権の思い込みや多くの誤解、そして米国政府関係 それならばイラク戦争は経済にどのような影響を与えたのでしょうか。 それならばイラク戦争は何が国際法に反しているのでしょうか。 どちらもイラクを相手にした戦争であり、アメリカがイラクを攻撃したという意味でよく似... 2001年9月11日に同時多発テロを経験したアメリカは2003年3月20日からイラク戦争を開始しました。 2018/10/9 ... アメリカはイラクが大量破壊兵器を保有しているのではないかという疑いからイラク戦争を始めました。 1172.イラク戦争での日本の対応 米国の単独イラク戦が開始する。これに対して日本はどうするか? Fより さあ、米国の単独攻撃が数週間後に始まる可能性が高い。このとき 日本はどう行動するべきなので … イラク戦争の問題点とは一体何だったのでしょうか。もともとイラク戦争というのは多くの国から反対された戦争でした。アメリカのみならずイギリスやオーストラリアが一緒に戦っており、日本もイラク戦争に対しては賛成の意思を示していたのです。 2001年に... イラク戦争は一体なぜ起こったのでしょうか。 しかしこのイラク戦争は世界から批判された戦争でもあり、反対した国もたくさんありました... イラク戦争というのは海外からも批判された戦争でした。 2003年のイラク戦争が起こった理由は建前としてはイラクが大量破壊兵器を隠し持っている可能... 2003年3月20日、イラク戦争が始まりました。 イラク戦争に介入したのは連合軍であり、それらの国々はイラクの自由作戦のな... アメリカはイラクが大量破壊兵器を保有しているのではないかという疑いからイラク戦争を始めました。 【ホンシェルジュ】 2003年にアメリカをはじめとする連合軍がイラクへ武力行使をすることで始まったイラク戦争。開戦の際に多くの疑問が持たれましたが、あなたはどれくらいご存知でしょうか?今だからこそ知っておきたいイラク戦争を関連書籍をご紹介するとともに解説していきます。 ここではイラ... (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). イラク問題では、各国の世論調査で戦争に反対する意見が戦争推進派を軒並み上回る結果が出ている。イラク攻撃が秒読み段階に入ったと報道される中、世論は外交にどのような影響を及ぼしているのか、日本はどういった選択をすべきなのか。国際政治学者の藤原帰一東京大学教授に聞いた。 しかしこの開戦理由には様々な説がありますよね。 日米同盟 アメリカの歴史ナビではアメリカ独立戦争・アメリカ独立宣言・アメリカ領土拡大・南北戦争・米西戦争・奴隷解放宣言・第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦・冷戦・湾岸戦争・イラク戦争・同時多発テロ・リーマン・ショックなどのアメリカ史の重要な出来事を紹介しています。, 2018/10/9 1990年8月2日、イラクによるクウェートへの軍事侵攻で始まった湾岸戦争は、冷戦後の世界が経験した最初の国際危機であった。日本にとって湾岸体験は、冷戦後世界の現実に対する不快な目ざめ(rude awakening)となり、「湾岸ショック」や「湾岸のトラウマ」とすら呼ばれてきた。なぜ日本はあれほど対応にとまどったのか、湾岸経験は日本に何を残したのか、20年あまりを経た今、あらためて振り返ってみる価値があろう。, ニューヨーク市内のホテルでブッシュ米大統領と(左)と会談する海部俊樹首相(1990年9月29日), 実は危機発生の当初、海部俊樹政権は、8月5日にはイラクへの経済制裁を決定した。これは国連安全保障理事会(以下、安保理)で経済制裁決議が採択される前日のことであり、素早く、かつ明確な対応をとったといえるものであった。しかし結果的には、この対応はすでに日本外交のひとつの弱点を示したものであった。すなわちそれは、日本は過去に先例があるか、あるいは過去の教訓から反省した事例については迅速に対応するが、予想外の新たな事態に際して基本方針が混乱するとなかなか態勢を立て直せない、という性質である。海部政権の措置は、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の経験、ないし反省に倣った措置であった。日本は基本的に、湾岸危機もソ連のアフガニスタン侵攻と同様の事態、すなわち、先進国は中東での地域紛争には直接かかわらず、間接的に支援するというパターンを踏襲すると無意識のうちに考えていたのである。, 実際には、国際情勢も、日本を取り巻く状況も1980年代に大きく変化していた。冷戦は急速に終焉に向かっており、イラクのクウェート侵攻の前年(1989年)11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタでブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長が冷戦の終結を宣言していた。中国ではこの年の6月に天安門事件が起きたが、鄧小平は改革開放の継続を求めており、1990年代初頭には西側への協調姿勢が強かった。イラクの侵攻時、ベーカー米国務長官はソ連訪問中で、ただちに米ソ両国はイラクを非難する共同声明を出した。湾岸危機は米ソ協調のテスト・ケースと見なされたのであり、冷戦時代には機能しなかった安保理が前面に出て対応することになった。安保理が武力行使の合法性を担保し、アメリカが実体的な軍事力を提供する中で、日本は国連中心主義の建前とアメリカとの同盟関係という実態のいずれでも、武力行使への明確な支持を求められることになった。, 同時に、1980年代後半の拡張的金融政策で金満国家となった日本はアメリカを含めた諸国から次第に警戒されるようになっていた。日本は自国の経済的利益を一方的に追求し、他国の経済支配を狙っている経済的重商主義国家であるという「日本異質論」が唱えられ、アメリカの議会や世論に一定の影響を持つようになっていた。1987年、東芝の子会社がココム(対共産圏輸出統制委員会)規制に違反してソ連に工作機械を輸出したことが明るみにでたことはアメリカで政治的に大きく扱われ、その後、米議会が日米政府間の既存の合意を反故にして次期支援戦闘機(FSX)開発合意を修正させる背景になった。そして1989年には三菱地所がロックフェラー・センターを、ソニーがコロンビア映画を買収するというように、日本企業はアメリカ人の感情を逆撫でするように振る舞い、arrogantと非難されても仕方のない心理状態に陥っていた。, 着任あいさつに竹下登首相(右)を訪れたアマコスト駐日米大使(1989年5月18日), しかも、日本は経済的繁栄の絶頂にありながらも、1989年のリクルート事件発覚によって自民党政治は揺らぎ、参議院では野党が多数派を占める構造となっていた。さらに、自民党内では政権基盤の弱い海部首相を竹下派、特に小沢一郎幹事長が支えるという二重構造となっていた。こうした中で湾岸危機に対応を求められたことは日本を追い詰めることになった。, 実質を考えれば、当時の日本が軍事的に貢献できる余地は少ないことは明らかだった。自衛隊は発足以来一度も部隊として国外に出たことはなく、そのための法制も訓練も不足していた。日本が最も大きな貢献をできるのは、資金、物資の面であることは明らかだった。しかし経済力による貢献は、部隊を派遣している諸国、とりわけアメリカからは強く批判される運命だった。人的貢献の不在は、日本がいかにも自国中心の重商主義国家であるとの印象を強めるものだからである。それはアメリカ国内での対日批判だけでなく、米国内に存在した米軍による武力行使反対論を強める要因になり得ただけに、米政府は日本の非金銭的貢献に神経を使った。アマコスト駐日米大使は「ミスター・ガイアツ」との異名をとった。, さらに、日本はイラン革命後もイランと国交を保つなど、中東についてはアメリカの政策を全面的に支持してきたわけではなく、湾岸危機に臨んでも、アメリカと距離をとってイラクに撤退を求めるべきとの議論も存在した。具体的に日本にできる方策はほとんどなかったが、日本人が欧米人とともに人質としてイラク国内に拘束されたために、多国籍軍への協力を抑制するべきとの議論は国民の感情に訴えるものがあった。, こうした複雑な状況の中で、日本政府の対応は混乱を極めた。ブッシュ大統領からは輸送、補給等の面で日本の支援の要請があった。これはアメリカが大量の部隊を湾岸に派遣する計画の中で当面、実際に不足していた資源であった。しかし自衛隊を提供する枠組みが存在しないため、民間船舶、航空機のチャーターを政府は検討した。しかし戦闘地域への派遣に民間側は消極的であった。日本がこの面でほとんど役に立てないことを伝えた外務省の丹波實審議官に対してアメリカは、ペルシャ湾にいる多数の船舶が日本向けであると伝えて、自国の経済利益のためには民間会社は活動するのかと暗に非難した。, 湾岸戦争多国籍軍への90億ドル追加関連法案が可決され、海部俊樹首相(右)と握手を交わす橋本龍太郎蔵相(1991年2月28日), 丹波がアメリカの厳しい雰囲気を伝えたことを受けて1990年8月29日、日本は資金提供を公表したが、その際には1,000万ドルという数字しか公表されなかった。アメリカの強い不快感が伝えられた翌日、大蔵省は10億ドルという数字を公表した。政府内では10億ドルで検討が進んでいたが、発表のやり方の稚拙さによって、日本はいかにも自己中心的で、外圧によってしか国際貢献をしない国だという印象を与えてしまった。その後も日本政府はアメリカの意向を気にしつつ、資金提供を追加し、結果的に130億ドルを拠出したが、開戦後に提供を表明した90億ドルについてはドル建てか円建てかをめぐって日米で一悶着があった。ブレイディ財務長官と橋本龍太郎大蔵大臣の間でこの金額は即決されたのだが、円建てかドル建てかを決めておらず、その後の為替の変化に対して日本は円建てを表明し、米側はドル建ての支払いを求めた。結果的には対米供与分については日本が譲歩したが、せっかくの資金提供もこうした技術的な問題で効果的な印象を与えることはできなかった。, この間、10月には日本の人的貢献を法制化するために国連平和協力法案という法案が国会に提出された。しかし政府内では、自衛隊を派遣すべきという見解と自衛隊とは異なる形での人的貢献を検討する立場が完全に統一されないままであった。政治家では、海部俊樹首相は自衛隊派遣に消極的であり、たとえ自衛隊員を派遣する場合でも、自衛隊とは異なる組織の人員として派遣されるべきと考えていた。他方、小沢一郎自民党幹事長は、国連による集団安全保障の場合には現行憲法下でも参加可能という立場であり、自衛隊の部隊としての派遣を主張していた。外務省内でも、消極派と積極派が分かれ、意思統一は行われなかった。こうした状況では法案が成立することはもとより不可能だった。もちろん参議院で野党が多数を占めている状況では、いかなる形であれ、自衛隊員派遣を認める法案が通る見通しは小さかった。世論は自衛隊派遣に2割程度しか賛成していなかったのである。政府内で喧々囂々の議論が行われたが、11月8日には法案は廃案となった。, また、イラク国内で実質的に人質として拘束されていた日本人の解放に向けても、日本政府は目立った活動を行えなかった。イラクと交渉する材料がなかったが、仮に直接取引によって日本人だけが解放されれば、利己的な日本という評判を強めかねないという懸念すらあった。結局、武力行使の可能性が高まった11月末に中曽根康弘元首相が特使としてイラクを訪れるなどしたあと日本人は全員解放されたが、翌日には欧米人の人質も解放されており、日本外交の働きかけが奏功したというよりも、イラクとしては武力行使の可能性が高まる中、国際世論に影響を与える方策として人質を解放した可能性が高い。, 1991年1月17日午前3時(現地時間)、多国籍軍は攻撃を開始した。日本への正式な通告は、村田良平駐米大使と中山太郎外務大臣に対してベーカー国務長官から攻撃開始の30分前に行われた。その戦争の実際はアメリカの軍事的優越を見せつけた。圧倒的な空爆に加え、イラクのスカッドミサイルを打ち落としたとされたパトリオット(実際には命中率は低かったことが後に明らかとなった)、新興メディアCNNがアピールしたアメリカのメディアのグローバルな報道力は世界を驚かせた。日本人の多くもテレビの前でリアルタイムの戦争報道を見つめることになった。, もちろん日本が何もしなかったわけではない。それどころか現場では多くの努力が行われた。多国籍軍には4輪駆動車やウォークマンなどさまざまな物資が提供され、現地では高い評価を受けた。イラク国内に残った民間人や外交官も苦しい状況の中で耐えた。日本の資金は円滑に提供され、多国籍軍司令官のシュワルツコフは日本に深い感謝の意を表明した。さらに湾岸戦争終了後の1991年4月、当時の自衛隊法の枠内で戦闘終了後の機雷掃海は可能であるという解釈のもと、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、ペルシャ湾の機雷掃海にあたった。しかしこうした地道な努力にもかかわらず、全体としては湾岸戦争の経験は日本外交に深い敗北感を残した。クウェートが謝意を表明した中に日本の国名がなかったことはどの程度意図的だったかどうか分からない。しかし日本の湾岸戦争での「貢献」が世界的には評価が低く、日本外交の威信が低下したことは否めない。, 湾岸戦争の経験は日本にどのような教訓を残したであろうか。まず、戦後日本が追求してきた経済繁栄が頂点に達していたときに起きた国際紛争について、日本が無力に近い存在であったことは、冷戦後の国際秩序を維持運営するうえでの日本の国力の限界を意識させた。「湾岸ショック」をきっかけに日本人は人的な国際貢献の必要性を意識し、1992年には、強い政治的反対はあったものの国際平和協力法を成立させた。これは自衛隊を国連平和維持活動への部分的な参加を認めるもので、同年、カンボジア内戦終了後の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動に自衛隊史上初めて部隊が派遣された。, 同盟や安全保障の問題も湾岸戦争をきっかけに、より多く議論されるようになった。日米同盟の重要性を政治家は正面から発言するようになり、1997年には朝鮮半島有事などを念頭においた日米防衛協力のガイドラインが合意され、その後、北朝鮮によるミサイル発射などを受けて日米共同でミサイル防衛が導入されることにつながった。, カンボジア・タケオ市で、地元市民の協力を得てPKO活動を行う自衛隊員(1992年10月8日), 湾岸戦争時の混乱ぶりから考えて、これらの変化が比較的順調に進んだことは不思議にも見えるが、ある程度は、過去の失敗から学んだ教訓に備える事に関しての日本人の能力が示されたといえよう。しかしそれだけでなく、1990年代から2000年代にかけて日本はこうした枠組みに基づいて、国連での安保理改革や日米同盟の強化を追求してきたのである。, この方針は、湾岸戦争を通じて形成されたアメリカが主導する国際協調態勢とそれを裏づけるアメリカの圧倒的な軍事的、技術的優越を前提として追求されてきた。逆に言えば、協調的な国際秩序の中でアメリカとの同盟関係を基軸に外交や安全保障を組み立てるという日本外交の発想は、湾岸戦争時から大きく変化していないということである。しかし過去20年の間に国際協調は次第に後退し、アメリカの単独主義的傾向が強まることになった。しかし中央アジアと中東で2つの非対称的な戦争に従事したことで、アメリカの誇る軍事的優越にも陰りが明らかとなった。アメリカの覇権が相対的に低下し、その力が圧倒的とは見なせなくなったと同時に、新興国の台頭によって主要国間の協調が円滑でなくなった今日、湾岸戦争時に日本外交が示した弱点がふたたび浮上してくる可能性はあるだろう。, 弱点の第一は、日本が国際政治の中でいかなる役割を果たすかという日本外交のアイデンティティに関する問題である。戦後日本は軍事力を対外政策の手段として用いず、平和的経済手段に専念することを基本としてきた。今日、平和維持活動に参加する自衛隊の武器使用の問題や、米軍の救援に関する集団的自衛権が論争を呼ぶのも、従来の解釈の変更という技術的問題だけではなく、戦後日本がこれまで抱えてきたアイデンティティはどの程度まで維持され、またどの程度修正されるべきか、日本の中で明確なコンセンサスが欠如していることの反映というべきである。, 第二は、既存の枠組みでは対応できない大きな危機に直面したときの政府の戦略的判断力の弱さの問題があった。これは情報の収集や、官僚のセクショナリズム、政治家と官僚の関係など多くの問題を抱えながら、今日もなお大きな課題である。特に近年、尖閣諸島をめぐる日中間の紛争や、2011年3月11日の大震災と原発事故への対応を見れば、政府の能力は依然として改善すべき点が多いことは明らかである。湾岸戦争の経験はすでに克服されたわけではなく、今も日本外交にとって課題を投げかけ続けている。, 湾岸戦争 期接続産業連関データベース, マイクロデータ計量分析プロジェクト. イラク戦争は日本にも大きな影響をもたらしたといえます。もともとイラク戦争は多くの国に反対されていたものでしたが、日本の総理大臣である小泉純一郎はイラク戦争を支持していたのです。それなら具体的にイラク戦争が日本に与えた影響とは何だったのでしょ イラク戦争, アメリカのみならずイギリスやオーストラリアが一緒に戦っており、日本もイラク戦争に対しては賛成の意思を示していたのです。, もともとイラク戦争というのはアメリカが「イラクには大量破壊兵器がある」と述べたことに始まります。, これはいきなり言い出したものではなく、1990年の湾岸戦争が終わったとき、停戦協定に置いてイラクは大量破壊兵器の放棄が求められていたにもかかわらず国連の査察を拒否していたため、アメリカがイラクの中には大量破壊兵器があると疑っていたことから始まります。, しかし、2001年に同時多発テロを経験して2002年にテロの首謀者であるアルカイダを倒すためにアフガニスタンを攻撃したアメリカは、今度はテロを応援しているフセイン政権を倒すためイラクを攻撃しようと考えたのです。, そのため湾岸戦争の休戦協定に目をつけ、イラクを攻撃しようとしたのです。つまり、イラク戦争の理由そのものが問題点と考えられます。, さらに、大量破壊兵器を持っているかもしれないからなどという理由でイラク戦争が始まってしまったら、他の国はどうなるのでしょうか。, また、本当に大量破壊兵器があるかどうかもわからない国をあえて攻撃する理由にもなりません。, このようなアメリカのダブルスタンダードがイラク戦争の問題点として浮き彫りになります。, 小泉純一郎はイラク戦争に賛成の意を示しており、2003年の12月から自衛隊をイラクに派遣したのです。, 自衛隊というのはあくまでも日本を守るための組織ですから、そんな自衛隊を戦争が起こった場所に派遣して何ができるのか、という意見もありました。, 憲法9条で戦力を持たない、戦争はしない、と述べているにもかかわらず、そんな自衛隊をイラクに派遣するのは憲法違反ではないのかという声も上がったのです。, また、自衛隊がいるのは非戦闘地域だと言われていたにもかかわらず、自衛官は危険にさらされることもありました。, さらに小泉首相が「自分が非戦闘地域と戦闘地域の区別がつくはずがない」「自衛隊がいる場所こそが非戦闘地域だ」などと無責任な発言をしたことにより、国内の波紋を広げていくことになるのです。. アメリカの歴史ナビではアメリカ独立戦争・アメリカ独立宣言・アメリカ領土拡大・南北戦争・米西戦争・奴隷解放宣言・第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦・冷戦・湾岸戦争・イラク戦争・同時多発テロ・リーマン・ショックなどのアメリカ史の重要な出来事を紹介しています。, 2020/6/20 イラク戦争は2003年3月20日に始まった戦争です。 存在しないはずの イラク戦争に派遣された自衛隊の日報が 発見されたのである。 これにより、日本はどの様に イラク戦争に関与していたのかが わかりやすく調査する事ができるのだ。 だが、およそ1年前である2017年の 2月にイラク戦争へ日本から派遣された 自衛隊の日報の資料要求に対して政府は 「みつからなかった」 と答えていたのである。 そもそも、わかりやすく言うのであれば 自衛隊はイラク戦争の非戦闘地区に 派遣され … 特にこのイラク戦争には... (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). 2020/6/20 2001年に... 2003年3月20日、イラク戦争が起こりました。

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